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「これは平均の罠だよ」と彼女は言った

(2016年11月30日作成のものを改変)

「フリーランスって便利屋か何かと思っているんじゃないの」
香奈子はそう言ってレモンサワーを一口飲んだ。
「だと思うよ。家でのんびりしながら片手間でやっていると思っているんだよ」
里菜はそう言いながら白ワインの入ったグラスに手を伸ばした。

香奈子と里菜がいつものお店のカウンター席で飲むのは毎月恒例の行事だ。二人とも会社員ではなく個人として働いている、いわゆるフリーランスだ。香奈子はライターとして、里菜はイラストレーターとして、企業から依頼を受けたときに仕事をする。
「里菜のイラストレーター能力って相当なものじゃん。あれは片手間じゃ絶対にできないよ」
「そりゃそうだよ。この才能が会社のつまらない雑用で埋もれちゃうのが嫌だから、イラストだけで済むようにフリーランスでやっているんだから」
「どこから来るの、その自信」
「それくらいの自信がないとやっていけないでしょ。全部自分でなんとかしなきゃいけない世界なんだから。香奈子のライターこそ、誰でもできると思われそうじゃないの」
「そうなんだよねえ。人手不足解消のためにいるわけじゃないっつーの」

話のきっかけは、先日のニュースだ。フリーランスが企業の人手不足解消や女性の社会進出、働き方の多様性をうながすらしいとして、国がフリーランスの実態を調査する、というものだ。

「私のイラスト能力は人手不足を解消するためにあるわけでもないし」
「私のライティング能力は……まあ社員が書く暇ないから任せるっていうのはあるかもしれないし、文章を書くプロがいてもいいと思うんだけどね」
「プロに対する見返りが少ないんだよね、この国は」
「どこの国からの目線?」
「知らんけど」
「でも、よほどのスキルとプロ意識がないとフリーはやっていけないよね。収入も貯金もそんなに多くないし」
「ところがですよ香奈子さん」
「どしたの」
「フリーランスのほうが貯金は多いらしいよ」
「そうなの?」
「そういうニュースも見た。えっと……」
里菜はスマホを取り出して調べ始めた。
「これこれ。平均貯蓄額、フリーランス431万円、正社員359万円」
「はあ?」
「フリーランスの貯金の平均は431万だって。私、そんなにないよ」
「私もない」
「みんな儲かっているんだなあ。もっとがんばらないといけないのかあ」
「ちょっと見せて」
香奈子は里菜からスマホを取り上げて記事を見てみた。
「あー、これは平均の罠だよ」
「平均の罠?」
「平均が一番多いという思い込み。私が勝手に呼んでるだけだけど」
「どういうこと?」
「聞きたい?」
「聞きたいです、香奈子さま!」
「だから誰?」

香奈子はレモンサワーを一口飲んでから話し始めた。

「この記事はフリーランスと正社員それぞれ500人ずつに聞いている。で、フリーランスの平均貯金額は431万円ってことだけど、グラフを見ると」

「あれ、400万円台って1.2パーセントしかいないよ」
「そう。一番多いのは100万円以下、次が0円。フリーランスで貯金なしってすごく怖い気がするけど、それはおいといて。次が100万円台で、次にくるのが1000万円以上」
「あーなるほど。両端に山があるのに、平均にしちゃうと真ん中の数字になっちゃうのか」
「そういうこと。こういうグラフというか数値の分布の場合、平均と実感は違ってきちゃう」
「じゃあ、フリーランスの平均が431万円、正社員の平均が359万円っていうのも、実感と違うってこと?」
「違う。だって、貯金0円はフリーランスのほうが多いし、全体的には正社員のほうが多い」
「う、確かに……大体フリーランスで貯金なしってどういうことよ」
「それさっき私も言った」
「てへっ」
「だから誰さ」
「あ、じゃあなんでフリーランスのほうが平均が高くなるの?」
「なぜでしょう」
「うわ出た、香奈子さまの人を試すクイズ」
「いいから答えて」
「うう、厳しいよお」
里菜はスマホの画面をじっと見ながら考えている。
「そうそう。同じグラフを載せるから、里菜が考えている間に読者も考えてね」
「誰に話しているの?」

香奈子がレモンサワーを一口飲んだことに、里菜が「あっ」という声を上げた。
「わかった。1000万円以上だとフリーランスのほうが多い。こいつらが平均を押し上げているんだ」
「こいつらって……まあ気持ちはわかるけど。それで正解」
「なるほど、フリーランスは両極端になりやすいっていうことか」
「それは言えるかもね。しかも上のほうの金額を考えると、正社員だと給料の上限はほぼ決まっちゃうから貯金額も自然と壁ができちゃうけど、フリーランスはないからね」
「うーむ、さすがライター。分析能力がすごい」
「仕事でも、たまに平均だけで語ろうとする無理な解釈が出てきてうんざりするんだよね」
香奈子はため息をついた。
「じゃあ、実感に近い数字を出すとしたらどうするの」
「どうするでしょう」
「また出た、香奈子さまの人を試すクイズ」
「いいから答えて」
「うう、厳しいよお」

「全体的にフリーランスのほうが左にかたよっているから、それを表現できる数字があればいいんだよね」
「まあ、そういうことかな」
「なんかこう、左から数えていったら、同じ10人目でもフリーランスのほうが金額が少ない、的な」
「お、いいところを突いている」
「正解?」
「考え方は正解。ただ10人だとサンプルの数によって差が見えにくくなるから、ちょうど半分数えるのがいい。それが中央値」
「中央値?」
「端から数えていって、真ん中の数字のこと。このグラフだと、左でも右でどっちからでもいいけど、パーセントを足して50になったところの金額のところ」
「えっと、どう数えればいいの?」
「フリーランスで考えると、最初が22.2、次が24.4。足して46.6。次の100万円台の16.0を足すと62.6になっちゃうから、ちょうど50になるのは100万円台前半ってところかな」

「おお、100万円台前半なら、そんなものかなって思える!」
「でしょ。同じことを正社員でやると、最初の18.4と次の26.0を足して44.4。100万円台の16.2を足すと50を超えちゃうから、多分こっちも中央値は100万円台前半。ただ100万円未満のところでフリーランスとは2.2ポイント差をつけているから、中央値は正社員のほうが少しだけ高めかも」
「おお、中央値すごいな」
「もちろん中央値だけで判断できないこともあるし、本当は分散とかもあるんだけど、そういう見方もできるってこと」

里菜はスマホをバッグの中にしまい、白ワインを飲んでから尋ねた。
「中央値って学校で習った覚えはないけどなあ。香奈子は習った?」
「覚えてないなあ。ちゃんと知ったのは大学で統計の授業を聞いたときかな」
「小学校で平均は習ったけど、多分それしか知らない。平均のところが一番多いと思い込んでたかも」
「平均しか言わないニュースもあるしね、さっきみたいに」
「なんで小学校で中央値も教えないんだろう」
「うーん、たぶん理由は2つあると思う」
「2つ?」
「ひとつは、小学校のときに使う題材が身長とか体重とか、真ん中にだけ山が1つあるタイプのものだから。そういうときは平均値も中央値もほぼ同じになるから、あえて中央値も教える必要がない」
「他の題材なら平均値と中央値が一致しないのに?」
「小学生に貯金額を題材にするのもどうかと思うし」
「はは、確かに」
「身長とか体重は、小学生にとっては身近っていうのがあるかも」
「ふーん。で、あとひとつは?」
「中央値の計算はつまらない」
「何それ」
「中央値って、端から数えるだけ。でも平均を出すためには、かけ算と足し算と割り算を駆使しないといけない。いかにも小学校の先生が好きそうでしょ」
「小学校で習う計算を総動員って感じ」
「そうそう。平均値そのものよりも、どっちかというと平均値を出すための計算を重視する。それが悪いとは思わないけど、本当は平均値を出した後でどう解釈するか、そもそもデータの解釈で平均値が本当に最適なのか、そこから考えなきゃいけないんだけど」
「でもそれ、小学生には難しくない?」
「まあね。でも中学か高校くらいでやってもいいと思うんだけどねえ」
「でも実際、平均しか教えないデータって多いんじゃない?」
「そうなの! 例えばTwitterに書くのは1日3回というのもあったけど、あれも平均。これは逆に書かない人が平均を押し下げているはず。書いている人はもっといっぱい書いている!」
「へえ、香菜子は1日に何回Twitterに書くの?」
「……う、頭がっ!」

フリーランスが儲かるかどうか、平均だけじゃわからない。結局、自分ががんばるしかないんだ。

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参考資料


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