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小説をかく

図書館の階段をのぼる。2階は、児童書コーナーだ。

今日は、絵本をまた作りたいなと思って、絵本を見に来た。
階段をのぼると、チラシがならぶ台がある。
わたしは、保健所での子どもの健診などで子育て情報のビラをもらうと一通り目を通してしまう。うちの子どもでも参加できそうな子育てイベントはないか、有益な補助情報はないかなど。
4才の長女は、そのコーナーにある紙に文字らしきものを書いて目安箱に入れるのが好きだ。私はそれを書き終わるのを待つ係。

しかし、今日は違った。うす緑色の1センチほどの厚さの冊子が5冊ほど積まれていた。表紙を見ると、市主催の作文コンクールの受賞作品集だった。

そんなコンクールがあったのか。受賞者名と作品名の一覧が載る目次のページを開く。小学1年生から中学3年生の名前がならぶ。

そう、私は昨日小説を書きたいと思ってたんだった。でもちょっとか 今ちょっと書こうとすると、手が止まった。

昨日の日曜日。長女と夫が連れ立って、近所の都市公園へ出かけた。私は、0歳10ヶ月の次女をおんぶして、図書館に本を返却しに向かった。2月末の春の風。成り立ての親子らが、図書館の前の広場で、砂埃を立てて走り回る。この風景は、今私が見ている風景。それ以外の何でもない。じゃあ、いまここから見えるものを書けばいいんじゃないか。ふと閃いた。

そして家でラップトップを開き、メモアプリを起動して、キーボードをタップした。タップする動作が苦手なのだろうか。いま打った文字を目にするその微妙なまどろっこしいさ。それとも、変換のまどろっこしいさ。書き進められない。

そうだ、音声入力してみよう。それなら書けるかもしれない。正確には、話せるかもしれないとさっき思い立ち、またペンと言うかスマホの メモアプリの音声入力を立ち上げた。

場所は、図書館に戻る。小学生から中学生までの受賞作品。創作部門と読書感想文に分かれる。もしどれか一つ読むなら、やっぱり創作部門か。読書感想文ではなく。作文というものは、こなれては駄目なような気がしていた。私は読書感想文が大嫌いで、やたら鍵括弧を使って会話文を作ったり、擬音語や擬態語でマスを埋めることを途中で覚え、原稿用紙を埋めているような小中学生だった。遠足の感想文なら、書き出しはこうだ。

キキキキキー。
遠足のバスが止まった。

というような書き出しだ。

こういう表現でしょ。子供は大人が思っているよりも利口だ。多くのことを言語化できないことも分かっている。赤ちゃんもそう。

創作部門の金賞受賞作は、中学1年生の女の子だった。どんな作品で、彼女はどんな子なんだろう。

作文の受賞作は、一番読書感想文よりも難易度が高いからか、一番学年の小さい子でも小学3年生だった。なんとなく銀賞よりも、金賞を読みたいなあという気分で、結局中学1年生の子の女の子の作文を目を通した。

原稿用紙5枚ぐらいかと思ったら、おそらく15枚ぐらいもあった。なかなかの分量だ。

成績が下の方で、絵だけ得意だという主人公の独白から始まった。私は成績は悪い方ではなかったが、それでも絵は得意だった。なにかひきつけられるものがあり、どんどん読み進めていった。そこには読ませる何かがあった。

大人の文芸賞に送れば、何か偉そうな人が何か偉そうなことを言っていじくり回しそうな文章になってしまいそうな危うさも抱えていた。

まだほとんど何も書いてない私が言うのもなんだが、よくかけていて、とてもストーリー性のあるものだった。そして事実はひとつだった。彼女はただ書いた。私は書いていない。それだけだった。だから書いてみよう。そして、今書いている。ただそれだけだ。

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