見出し画像

【MeStory】正規小学校教員の退職を考え始めたきっかけ~先生としての生き方改革はじめました~

2024年3月31日をもって、12年間勤めた正規小学校教員を退職しました。
退職を決断するまでには多くの葛藤がありました。
でも、今は心と体がすこぶる穏やかで、あっという間に仕事をしていない生活に慣れました。とても心地よい。
やっぱり人は余裕がなくなるとだめになるな。ネガティブになるし、イライラするし。

今日は退職を考え始めたきっかけについて記したいと思います。


1 産休・育休を明けて


独身の頃は仕事をしながら職場の先生と雑談、一緒に夜ご飯を職員室で食べたり、クラスの子たちが興味ひかれるような授業アイディアを考えるために土日家にこもったりと、「先生である自分」=「人生」くらいの比重で先生をしていました。
それが特に苦しいわけでもなく、子ども達の笑顔を見るためならと、なんの疑問も感じずに過ごしていました。

2017年度と2019年度の二回、出産に伴い産休と育休を取得しました。
子どもを育てながらの仕事は想像以上に大変で、時間に追われる生活が始まりました。  

「クラスの子たちのために」と思って費やした時間のほとんど全てを「我が子のために」使わなくてはいけません。

予定外の発熱によるお迎えで早退しなくてはいけない。
そのたびに周りの先生にお願いしなくてはいけない。
クラスの自習プリントを用意しなくてはいけない。
夫とどっちが仕事を休むかで戦々恐々とする。

自分の仕事を思って、子どもの体調不良を心から心配してあげられない自分がいました。

手助けしてくれる先生方がたくさんいて、
だれも嫌な顔せずに「だいじょうぶだよ。クラスのことは気にしないで」と送り出してくれる、それさえも申し訳ないと思ってしまっていました。

普段から17時ぴったりに退勤しないと保育園のお迎えが間に合わない。

2018年度、一度目の育休復帰当時は3クラスの学年で、1人小学校教員の経験が初めての後輩先生が一緒でした。
その先生がクラスのやんちゃ君への支援に困っていることを知っていながらも、私は先に退勤しなくてはいけません。

「ごめんね、今日はここまでしか話せないや」といって、帰ってばかり。
もう一人のベテラン先生が後輩先生の話を遅くまで聞いてくれていました。
授業のやり方や新しい教材の開発まで私が帰った後にやっていたらしく、
そんなことを知らない私は、学年会議中になんとなく置いてきぼり。

ベテラン先生は私のために、負担をかけまいと先周りでやってくれていたのですが、
そんな待遇を受ける状況に申し訳なさと情けなさ、疎外感を感じてしまいました。

とはいえ、この時は「辞めたい」というよりは、なるべく効率的に仕事をして、なるべく周りの人に迷惑をかけないように、自分のことはもちろん、見通しをもって校務に取り組もうという前向きな思いをもって働いていました。

クラスの子ども達にも恵まれ、「子育てしながらの先生業務も何とかなるかな」という成功体験ができあがりました。時間的なことも、業務内容もこのままならなんとかやりくりできる、そう思っていました。

2 次男の入院


二人目の育休が明けた年は、新型コロナウイルスで世界中が震撼していた2020年。

復帰とともに一斉休校。4月からの2か月間はありがたいことに特別休暇で休める体制になっており、不要不急の保育園登園が厳しかったこともあり、学級担任からはずしてもらったこともあり、かなりの日数を自宅で過ごしました。
また、夫の仕事が在宅でもできることになり、保育園の送り迎えを一手に担ってもらえたことも、あの辛い日々の中で非常に幸運だったことです。

6月、学校が再開すると同時に、妊娠中だった後輩先生が早めに産休に入ることになり、替わりに私が担任をすることに急遽決まりました。
なかなかハードではあったものの、できることが制限され、行事がなくなり、逆にゆとりがあったのではないかと今ふり返って思います。

そんな慌ただしくも充実した日々を送っていた冬、次男がけいれん発作を起こし救急搬送されました。

入院先は家から電車30分ほどの大きな病院。
コロナ禍で面会は一人、2時間までなどの規則がありました。

1歳半の次男が急に一人で数日親と離れて過ごすなんて、考えただけかわいそうで、私が泣いてしまいました。
ずっと付き添っていたいけど、できない。
入院してしまったら病院にいけない間は仕事をするしかない。
不安で、心配で、頭がパンクしそうでした。

次男は一度面会に行くと私の存在を思い出し泣きました。
2時間ずっと抱っこしてあげていました。
この後面会終了時、確実に大泣きしてしまいます。その姿を見るのが私自身辛くて、面会時間ぎりぎりの20時に抱っこで寝かしつけ、次男が眠ったら私も帰るという毎日を過ごしていました。

それでも入院中は看護師さんたちが見守ってくれたからよかったのですが、退院後の日常がなかなかきつく。
1週間は登園禁止。
体調が急変しないよう様子を見ていなくてはいけない。
預け先が、ない。
夫と私が交互に家で見守りました。
元気になっていく次男の姿を見ながら、家で自習課題を作成する私。

早く登園してほしい。
もう熱はあがらないでほしい。
自分の仕事はこれ以上滞らせてはいけない。

また、そんな風に考える自分に気づきます。
「私はいったいなんのために働いているのか」
「こんなに苦しい我が子を置いて、働き続けることにどこまでの意義があるのか」
と考えるようになりました。
そこまでして先生でいることに私自身、価値を感じているのか分からなくなったのです。

3 先輩の働き方をみて


次男の入院によって「先生を辞める」という選択が頭をよぎりながらも、夫が平日の大半をテレワークをするようになったことにより、子どもの休みの対応も夫にお願いすることが増えていったことで、自分のペースで最低限の仕事はできるようになりました。

早朝の地震で電車がとまり、それでも出勤しなくてはいけなかったときや
朝からの台風で電車がとまり、それでも出勤しなくては行けなかったときなど、
家で仕事している夫にうらやましさを感じながらも出勤を続けていました。

2人の子ども達も成長し、物事について考えて話せるようになったある日、長男から
「毎日お母さんとは3時間しか一緒にいられないね」と言われました。
朝6時に子どもを起こして、私が出発するまでの30分と、私が18:30に帰宅して、就寝する21:00までの2時間半を、長男は計算していたのです。

朝、まだ寝起きの次男が泣いてすがるのを振り払って出勤していることもあります。
なんなら起こしても起きない子ども達を、起こさずに出勤してしまったこともあります。

「自分は子ども達との時間を大切にしているのか」
「今の幼い子ども達の笑顔や会話を、満足するほど見てあげられているか」
自信がなくなってきました。

市内小学校に転勤になり、新しい学校では2歳年上の先輩ママ先生がバリバリ働いていました。
校内研究部のリーダーになり、多くの提案資料を作成、管理職と教員との間を取り持ちながら仕事をふり、あるいは自らこなす先輩に尊敬さえしました。
夜遅くまで学校に残っているらしく、土日もどちらかは学校に来て仕事をしないといけないと笑って話す先輩の顔は、なんだか充実感がありました。
でも…先輩にも小学生の子どもが2人いるはず。
そんなにハードに働いていて、家庭はどうなっているのだろう。

そんなことを勝手に考えながら、私はその先生と一緒に校内研究の中心を担うように管理職から命を受けました。
先輩先生から降りてくれる仕事はすでに骨組みができていて、言われたように処理すれば完成するものばかりで、そこまでの負担はありませんでした。
それは先輩先生がレールをひいていてくれているおかげです。

今後その先輩先生が転勤したらこれらの仕事は私に回ってくることになります。
そう気づいたとき、私はぞっとしました。

私が好きだった担任としての業務ならともかく、その他の校務で追われる日々
管理職に根回しをしたり、教員に説明したりするところに労力がさかれる日々
夜遅くまで職場で働く日々…

あ、無理。

先輩の働き方は、私にはできないし、やりたくない
そう確信しました。

もちろん「バリバリ働き、前に出て指揮を取ることで自分が承認される」ことにやりがいを感じる人もいます。
でも私はそうではない。
「先生としての私」と同じかそれ以上に「個人としての私」「家庭での私」を大切にしたい。

そうするならば、今のままではいけない。と考えるようになりました。
「この働き方を、辞めたい」
今までもやもやとしていた感情が、この時言語化されたのです。

4 まとめ

結局のところ
退職を考えた理由は、

自分の人生(一日)の大半が「先生」であり続けることに疑問を感じたから、

ということになるのでしょうか。
きっかけは出産。
でも、子どものために辞めたいと思ったのとはちょっと違います。

しかしそう考え始めてから実際に辞めるまでには高い高い壁がありました。
そのあたりはまた次のnoteで書いていこうと思います。


この記事が参加している募集

転職体験記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?