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六道と現世

 六道の輪廻は死後の世界のことではない

 とある行者さんが教えてくれた話で、おそらく本人はあまり覚えてらっしゃらないようですが、当時聞いたその説法から何年も時間をかけて感じたいまの私の答えを綴りたい。

私は仏教僧や行者でもなく、特定の宗派や門派に所属しているわけではないので、一般的な使い方として正しいか否かはわからないが、誰でも見られるWikipediaから引用します。
(これはちがう!とか言わないでね。宗派によって考え方や順番がちがうかもしれないので)

Wikipedia
六道の輪廻とは、仏教において衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界のこと。

コトバンク
仏教の輪廻転生思想において、衆生がその業にしたがって死後に赴くべき6つの世界。

浄土宗大辞典
すべての衆生が生前の業の報いによって赴く六種の輪廻の世界のこと。

とある行者さん
六道の輪廻は死後の世界ではなく現世である

 私にとって六道の輪廻に関して一番心をうたれたのはこの行者さんの言葉だった。
それはいまでも心に刻まれていて、これを糧に生きているといっても過言ではない。
 <六道>
 天道
 人間道
 修羅道
 畜生道 ※三悪趣
 餓鬼道 ※三悪趣
 地獄道 ※三悪趣
当時この言葉を聞いたときに、「わたしはいま地獄にいるんだ」と受け入れたのだ。
いつもイライラして欲求不満でどうでもいいことにお金は消えて自分を充実させることに使うお金がなく、着飾ることや自分のたいしたことのないキャリアを誇張したりとなんとも恥ずかしい女だった。

先日配信した「乳飲み子と餓鬼」の話でも取り上げたけれど畜生・餓鬼・地獄の「三悪趣」まで陥った姿がまさに自分だと感じたのだ。

行者さんからこの話を聞かされるまではたとえば「餓鬼」だとか、「地獄絵図」だとかを見ても正直架空の絵空事、おとぎ話、絵の世界であって実際のことのように思えなかった。
当時の自分は診断を受けたわけではなく、精神疾患なんて存在もしらなっかったけれど、いまにして思えば心に原因のわからない怒りと不安を抱え、手に入らなさそうなものを追いかけ、身の丈に合わないものをずっと乞い求めていた。まさに餓鬼そのものだ。
ブラック企業から抜け出せなかったのは畜生だった。完全に気力が枯渇し、どうあがいても何をしようとしても何もできず、動けず、希望も持てず、真っ暗だったあのころはまさに地獄だ。
「地獄の住人」と言われてムカッとしたけど、本当に地獄の住人だったのですね。

わたしがそこから抜け出せたきっかけは、何回も紆余曲折はあったけれど、自分が変わりたいと思うようになったきっかけが骨折だった。
ウダウダぐだぐだ悩んでいたら、いぬの散歩の最中転んで捻挫‥とおりこして骨折してしまった。結局、家事もなにもかも夫に任せることになり、完全に休むしかできることがなくなったのだ。
そしたら、他人に任せることができなかった自分が他人に任せざるを得なくなったことで、ふっと楽になったみたい。余計なことしてくれるなくらいの思いでイライラしながらやっていた家事なんかも、どうしようもないのだからありがたいと思う以外になかった。
快適ってわけでもないのだけど、こんなもんでもいいいか、と思えるようになった。

足が動くようになってからは、休むことで気力も回復したのか、家事、とくに料理を楽しむことができるようになった。
片付けや掃除はあんまり好きじゃないけど、簡単なスイーツを作ったりしてそれがすごく嬉しかった。こんなもんでもいい、と思えるようになった。

それから、足のリハビリをしたくて「元気になりたい」と真剣に考えるようになったその先に、ダイエットという課題が見えてきて、完全に意識が「もっといい自分になりたい」「元気になりたい」に切り替わった。それからはあっという間で、さんざん復職を悩んでいた仕事は自分のためにならないと見きりをつけることができ退職。
手当てをもらいながら1日1日を、季節の移り変わりや愛犬、夫と時間を過ごし、結局最後には自分にあった環境の仕事を見つけることができた。いつのまにか乗り越えてたという感じだ。いろんなことを手放し、そして得たものがある。

「大人になる」というのはどうゆうことだろうかと思うことがある。
体が大きくなり、言語や知能が発達して、できることが増えて、お酒がのめて、たばこが吸えて、18禁も堂々と見ることができて・・・なんてそんなものだろうか。

人間は体が成長すれば「大人だ」と錯覚しがちだけれど、体の成長と同時に多くの経験をして「精神」の成長をさせていく。
精神の成熟度と幸福感は繋がっていて、六道は、この心の成長過程ともいえるし、幸せへの地図とも言えるではないかなと思う。

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