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ボカロ文化とVTuber文化、およびそのキャラクター性について

僕は現在、ボーカロイド音楽論という講義をとっている。ボーカロイド音楽やその周辺文化を分析対象にしたり具体例として援用したりしながら、近代人文科学について広く浅く解説していく形の講義だ。授業中に好きな曲が聞けて楽しい上に、現代的な問題について議論していく時に土台として必要な知識が色々と得られて非常に助かる。

さて、今回はそこで行われたボーカロイド音楽とそのキャラクター論に関する議論を踏まえ、自分が最近ハマっているVTuberについての話をしたいと思う。

VTuberとボカロは共にインターネット発の文化であり、共通点も多いが、それと同じぐらい相違点も多い。この記事では、この共通点と相違点について、そもそもVTuberとは何なのかについて考えていきたい。講義を知らない人でもわかる内容になっていると思う。

このnoteは「ぱてゼミ Advent Calendar」への寄稿記事です。

ボカロとVTuberの関係性

VTuber界隈では歌ってみたが盛んで、かなりの割合の人が歌動画を出している。(そして上手い割合が異様に高い)

↑ホロライブ所属星街すいせいさんの天球、彗星は夜を跨いで(オリジナル)。楽曲提供は元ボカロPのキタニタツヤ(こんにちは谷田さん)さん。

もちろん普通に人間歌唱の曲を歌っている割合も多いが、それでもボカロ曲率は高い。「歌ってみた週間ランキング」という、ある週にライバー(VTuberのこと)の歌動画がどれだけ再生されたかを集計している動画があるが、これの12月第2週の統計でもホロライブは上位50曲中20曲が、にじさんじは上位50曲中27曲がボカロだ(これらは再生数上位のランキングなので、全ての曲を含めれば割合はもっと高いだろう)。

また、オリジナル楽曲の作詞作曲者にも名だたるボカロ出身者が名前を連ねていたりする。

例えば、にじさんじ1周年記念ソングの「Virtual to LIVE」はkzさん作曲だ。

最近オリコン1位にもなったにじさんじの音楽グループRain Dropsの楽曲にも、じんさんやsyudouさんといった有名ボカロPが参加している。

やはり両方とも完全にインターネット発祥ということもあり、ボカロ文化とVTuber文化には共通する点も多い。例えば、誕生してから数年で爆発的に成長したことや、ファンによる自主的な創作によって支えられていることなどがそうだろう。(これらはkzさんのインタビュー記事に詳しい)

しかし、互いに似たような文化であるからこそ、その違いは際立って見える。最も大きな違いは、そのキャラクター性だ。

作られるボカロと自ら作るVTuber

まずはその違いをボカロの方から、初音ミクを例にとって見ていこう。彼女に最初から与えられているのは見た目と声、そして非常に簡素な設定のみである。キャラクターとして成立しうる、必要最低限の要素だけが存在しているという感じだ。

↑クリプトン社の初音ミク公式紹介。見た目と声の他には年齢・身長・体重しか記載されていない。

そこからさまざまな創作者は、彼女の内面や行動を想像し、多種多様な作品を創り上げていく。時には彼女を、作者自身や作品の主人公と同化させて表現することもある。そうして作られた作品は、聞く人の性質によらず自身をその立場に置いて聞けるような作品になるだろう(このあたりは本編でも触れた話だ)。もしボカロを一言で表現するなら「当てはめる」キャラクターとでも言えるかもしれない。

次に一方、VTuberの方はどうだろうか。最初に与えられている設定が数行程度の簡素なものであるという点は、ボカロと共通である。しかし、彼らの設定を創り上げていくのは、他ならぬ彼ら自身だ。VTuberの二次創作というのも結構あるが、これらはあくまで"二次"的なものであり、主体となるのが本人の活動であることに変わりはない。自分が生配信や動画、Twitterなどでとる言動によって、視聴者や他のライバーからの人物像というのは固まっていく。

また、いわゆる"設定崩壊"が結構受け入れられているというのもVTuberの特徴だ。例えば、委員長こと月ノ美兎さんは女子高生ということになっているが、ゴリゴリに(一応モザイクはかかっているが)氷結を飲んでいたりする。

この「自分に与えられた設定を自分でぶち壊す」というのは、今までのキャラクター、ボカロにもなかった性質であり、VTuberのポストキャラクター的なところと言えるだろう。

そもそもVTuberとは?

さて、ここまでVTuberについていろいろと語ってきたが、「そもそもVTuberとは何か」とは、案外難しい問題であったりする。3DモデルやLive2Dモデルを使い配信活動をしている人、ぐらいが一般的な定義だろうが、最近ではそれまで実況者や歌い手として活動してきた人がLive2Dのモデルを使って配信している場合も多い(ガッチマンさん、まふまふさん、96猫さんetc…)。実際彼らがやっている活動はVTuberのそれとほとんど変わらないが、彼らのことをVTuberと呼ぶ人はあまり多くはないだろう。では、VTuberとそうでない人を分ける境目とは何なのだろうか?

↑ガッチマンさんのVTuber用のチャンネル。最近見た目がイケメンになった。

僕はVTuberのことを「現実の人間を強力にキャラクター化した存在」だと思っている。彼らは人間であると同時にキャラクターでもある、いわば両義的な存在だということだ。にじさんじの卯月コウさんが「人の生きざまがコンテンツになるっていうのがV(Tuber)だ」みたいなことを言っていたが(確かこの配信)、まさにそういうことだと思う。

もちろん彼らも我々と同じ世界に生きているのだし、何万人もの人に好かれるほどの人格的な魅力を持っているのは確かだ。見た目が好きなだけなら、何時間も配信を見に行ったりはしないだろう。しかし、現実を生きる人間というのは往々にして複雑な要素で構成されており、パッと見ただけでその人がどんな人か、どんな魅力を持つかを理解するのは難しい。

そこでバーチャルの出番である。バーチャル世界でキャッチーな見た目とシンプルな設定を得ることで、彼らは理解しやすい、キャラクター的な存在へと変わる。現実世界で「自分のことを一言で説明してください」と言われたら相当答えるのが難しいと思うが、バーチャルなら「脊髄で喋る吸血鬼」とか「英語つよつよドラゴン」とか答えられるだろう。そしてその後押しを経て、その人の人格的な魅力を更に輝かせることができるのだ。

これで先程述べた「VTuberとそうでない人の境目」もある程度わかるだろう。もともと別の活動をしてきた人は既に十分キャラクター化されているので、新たにバーチャルの見た目を持ってもあまり変わらないのだ。

まとめ

さて、ここまでの話を踏まえると、VTuberとは「なる」キャラクターであるとも言えるだろう。ボカロはアイデンティティがないことがアイデンティティとも言えるようなキャラクターだが、VTuberはむしろアイデンティティそのものだと言えるかもしれない。

自分自身をキャラクターの俎上に上げることに抵抗感を感じる人はまだ多いだろうが、バーチャルの世界で輝きを得る人はこれからどんどん増えていくだろう。VTuberの今後に期待だ。

↑最後に2曲おすすめ(両方ともオリジナル)。中毒性があるボカロ曲が好きな人はぜひ聞いてほしい。

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