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ノーゲストストーリー

間に合うか。

一人の青年が駆けている。勢いよく伸ばした足が水たまりに入り、水しぶきが薄汚れたジーンズにはじけ飛ぶ。傘は差しているが、まったく役に立っていない。濡れたTシャツが肌に張り付いて動きにくそうだ。でも、晴れていたら絶対に汗だくだった。どちらにせよ濡れることに変わりないのだが、汗でびしょびしょになるよりはこっちのほうがまだましだ。今年の梅雨は長く、少し肌寒い。

やっと着いた。

ガラッと勢いよく店の扉を開ける。

「おはようございます。」

「おう、おはよう。相変わらず今日もぎりぎりセーフだな。」

今日も店長は明るく笑いながら挨拶を返してくれる。

ここはJR山手線の大塚駅から歩いて10分前後にある小さな居酒屋だ。駅からの距離はそれほど遠くはなく、立地が良いように思えるが、残念ながら非常に場所が悪い。人気のある飲み屋が何軒も建っている南口とは真逆の北口に位置し、しかも大通りから外れた細い道の中でひっそりと営業している。店の正面には昔からあるうなぎ屋と最近の流行りで新しくできたタピオカ屋があるくらいで、周りにあるのはガールズバーか風俗店がほとんどだ。

カズキは今年の3月からこの居酒屋でアルバイトを始めた大学2年生だ。3月は大学が春休みだったので、友達と遊んで時間をつぶしていたが、前に働いていたコンビニのアルバイトを辞めていたこともあり、遊ぶお金がなくなってしまった。それで自給1,200円の高賃金にひかれて居酒屋でのアルバイトに応募したら、ノリの良さが受けたのか、働かせてもらうことになった。

店長には感謝している。アルバイトを始めてから3か月が経ち、仕事に慣れてきたおかげで、店長には何でも相談できるほど心を開くことができた。カズキが出勤時間に遅れてきても嫌な顔一つせず、むしろ「今日はカズキが間に合うか」を楽しんで観察しているように思える。まだ年齢が26歳と若く、カズキと年があまり離れていないので、最近の話題にもついてきてくれる。慣れない飲食店の仕事をここまで続けてこられたのは、店長が丁寧に面倒を見てくれたからだ。そんな店長のことをカズキは兄のように慕っていた。

「カズキはもう仕事にだいぶなれたよな。テーブルのセットが早くなってるし、しかも綺麗だ。」

店長が料理の仕込みを進めながら言う。

「ホールに飽きたんで、そろそろキッチンの仕事やらせてくださいよ。」

冗談半分で言ったカズキに店長がそのまま冗談みたいに返す。

「おいおい、さすがにキッチンはまだ早いぞ。あと5年は修業しないとだめだな。それに、カズキはもう少し笑顔で接客できるようにならないとな。仕事が早くできても怖い顔してたらお客さんは帰っちゃうぞ。」

ちぇ。やっぱだめか。カズキは完全にホールの仕事に飽きている。要領がよいのか、お客さんから注文を受けた後のキッチンへの伝達を間違えることはまずないし、料理の配膳だって素早く的確に運べる。しかし、ただ注文を受けて料理を運ぶだけの仕事はやりがいを見つけることが難しく、なかなかモチベーションが上がらない。

ガラガラッ

「こんにちは。雨が強くなりそうだからちょっとだけ飲みに来たよ。」

店の扉を開けて一組の夫婦が入ってくる。カズキはこの夫婦のことが少し苦手だ。年は40代前半くらいだろうか。この二人は常連で、カズキはだいぶ顔なじみになったのだが、カズキに愛想がないだとか、もっと笑顔で接客したほうがいいといったことを口を酸っぱくして言う。

「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ。」

夫婦2名を空いている席に案内し、温かいおしぼりを渡しに行く。

「ご注文はお決まりですか。」とカズキが訊ねる。

「とりあえず生でお願い。」二人とも生ビールを注文した。

やはり生か。この夫婦はいつも生ビールを注文する。まったく、何がおいしいのか。カズキにはビールのおいしさがわからない。最近は大学の友人と飲みに行く機会が増えたが、飲むお酒はサワーが基本で、チャレンジしてもハイボールぐらいだ。ひどい飲み会だとビールを飲むときもあるが、それはコールやゲームで酔わせるための道具として使うだけで、ビールをおいしく味わう飲み物として飲んだことは一度もない。だから、「とりあえず生で。」と一番最初に頼む人の気持ちがカズキには理解できないのだ。

すぐに生ビールを作るようキッチンに伝え、できた生ビールを持っていく。

「お待たせしました。生ビールでございます。」

テーブルに置いた生ビールで乾杯した二人は、おいしそうにそれを口に運ぶ。

「カズキ君は慣れてきたら愛想よく話せるのにね。最初の接客なんて無表情で怖かったよ。人見知りさえしなかったら良い接客ができそうなんだけどな。」

なかなか痛いところを突いてくる。「そうなんすよね。」と適当に受け答えするが、人見知りは直さないといけないとずっと悩んでいる。初対面で会った人は緊張してしまって、自分の強みであるノリの良さを発揮できない。カズキが店長と打ち解けることができたのは、店長のコミュニケーションスキルがずば抜けていたからだろう。本当はもっとお酒を好きになってお客さんにおすすめのお酒を教えたりしてみたい。

「ここは場所は悪いけど、おいしいお酒と料理がたくさんあって良い店なんだよな。」

しばらくたって、夫の方が出された枝豆をつまみながら呟いた。「ほんとね。」なんて妻が答えているが、カズキもそう思う。お酒の味はわからないが、ここの料理は絶品だ。

「お会計お願いします。」

30分ほど経って夫の方が声をかけてきた。

「かしこまりました。」

すぐに伝票をテーブルへ置きに行く。夫が財布を開け、代金を支払った後は、すぐにお見送りの体勢になる。

「ありがとうございました。またお願いします。」

今日は愛想よく接客ができたのだろうか。お見送りした時の表情から察するに、少しは満足してくれたと期待したい。後姿を見送ると、今日のカズキにはあの夫婦の足取りがいつもより軽やかに感じられた。

それにしても、ノーゲスか。

ノーゲスというのは No guest の略で、店内にお客さんが一人もいない状態のことを指す。時計を見ると針は午後の6時半を指しており、外は薄暗くなっていた。雨が降っているせいなのか、目の前の道路に通行人はほとんどいない。閑散とした店内を見渡すと、店長と目が合った。

なんとなく虚しさを感じてしまい、カズキはため息交じりに呟いた。

「暇っすね。」

「うし、タピオカでも買いに行くか。」

店長はこの状況を明るくするめに、いつもより大きい声を出したように感じられた。カズキはわざわざタピオカを買って飲むほどのタピオカ好きではないが、最近の流行りということもあり、店の正面のタピオカ屋には何度か足を運んだことがある。

「じゃんけんで負けた方が2人分買うからな。文句なしだぞ。」

「わかってますよ。」

2人でタピオカを買うときはいつもこのルールが適用される。年齢は一切関係ない、フェアなルールだ。前回は店長に勝って奢ってもらったのだが、今回はどうだろうか。

じゃんけん、ホイッ!

カズキは負けた。

くそー、オレかよ。奢るのは嫌だが仕方がない。しぶしぶとタピオカのポイントカードを握りしめ、店を出た。

雨は人の購買意欲をなくすのだろうか。店を出て正面のタピオカ屋も、いつもは女子が列を作り、それが道路まで伸びているというのに、今は人の気配すら感じられない。店のドアを開け、店内に入る。

その時だった。

「いらっしゃいませ。何になさいますか。」

一人の女性店員がカズキを迎えてくれた。その時の彼女の笑顔に、カズキは体が優しく包み込まれたような錯覚に陥った。緩いパーマをあてた黒髪のショートヘアは、彼女の顔の小ささを引き立てていて、白くてきめ細かい肌とのコントラストが美しい。

そしてなによりも、彼女の笑顔にぎこちなさは全くなく、とても自然な表情をしていたのだ。

「あ、ミルクティー、あとほうじ茶ラテをください。氷は、少なめで。」

3秒ほど見つめてしまった。目が大きいから引き込まれそうになる。注文のことをすっかり忘れていたので、急に口を開くと言葉がすぐに出てこない。うわ、もしかして今のオレって超ダサいのか。考えれば考えるほど恥ずかしさがこみ上げてくる。

カズキはいつも、身内や友人以外で声をかけることは絶対にないが、今日はなぜか口が勝手に動いていた。

「すごい笑顔ですね。」

「え、ありがとうございます。」

やばい、ひかれたかも。そう思ったが、口はさらに動き続ける。。

「どうしてそんなに元気よく接客ができるんですか。」

「うーん、何ででしょう。よくわからないな。あ、でもたぶん、タピオカを気持ちよく飲んでほしいからですかね。私、このお店のタピオカが好きだから、お客さんには明るい気持で飲んでもらいたいんです。」

照れくさそうに語る彼女は、白い肌を少し赤らめながら、視線だけは真っすぐとカズキの目を見つめていた。やばい、かわいい。しかもかわいいだけでなく、どこかかっこよさも感じる。

何でかっこいいのだろう。もしかしたら、仕事に対して真摯に向き合っているからなのかもしれない。そういえば、うちの店長も働いているときはかっこいいな。店長がかっこいいのも、仕事に真剣に取り組んでいるからなのだろうか。

「ありがとうございました。」

気が付くと、両手にタピオカを握りしめて店を出ていた。あ、そういえば連絡先を聞くのを忘れていた。それか、今度お店に来てください、とでも言っておけばよかった。せっかく正面にある店なのに。

惜しいことをしたと思いながら、仕事に対する姿勢はあの子に完敗だったと振り返る。とりあえず、お酒の味を知らないようでは、商品をお勧めしようがないと思った。よし、今日は退勤後にうちの店のビールを飲ませてもらおう。急にオレがビールを飲みたいなんて言ったら、店長は驚くかもしれないけど、きっと快く飲ませてくれるはずだ。

久しぶりに飲むな。しばらく飲んでいないから、味を忘れてしまった。

たぶん、苦みの中にほのかな甘酸っぱさがあって、どこか夏っぽい味がするのだと思う。どうせ、まだまだだけど。



これからの可能性に賭けてくださいますと幸いです。