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「伴奏者」という居場所。

こんにちは。染です。

昨日はしらゆい茶会にお声がけいただき、林檎スコップとして出演しました。

見に来てくださった皆様、そして共演の白結美心さん、永遠さん、ギターでコラボしてくださったみなたかさん、本当にありがとうございました。

おまみさんの相方としてピアノを弾くようになってから、ありがたいことにいろいろな素晴らしい出会いがありました。「林檎スコップ」という、新しい居場所も増えました。

思い返せば、ピアノはいつも、私に居場所をくれました。今日はそんなお話をしたいと思います。

何かと人付き合いに苦労する子供でした。
小学校の頃はどの学年でもいじめられ、一方で、傷つけるつもりは全くないのに人を傷つけてしまう、そんな所がありました。
いつしか「どうせ仲良くなれないから」と、輪に入っていくのを怖がるようになりました。

そんな私にとって救いだったのが、幼稚園の頃から習っていたピアノでした。
楽譜を見てピアノを弾けることが学校の先生に知られていると、合唱で伴奏を任されるんですよね。

合唱の練習が始まると、まずはクラスのみんなが綺麗な縦隊を作ってひな壇型に並んでいく。
そして先生は、「あなたはここよ」と私をピアノの椅子に座らせる。

何かと孤立しがちだった私にとって、みんなとは少し離れた所にあるピアノの椅子、という場所はすごく居心地がよかった。
この微妙な距離感が、まさにみんなと私みたいだった。
大人になった今では、壁を作っていたのは私の方だったということにも気付いているんですけどね。

先生の指揮に合わせてピアノを弾くと、そこに何十人という人の歌声が乗る。
ついさっきまで私に意地悪を言ってきた子も、わざと突き飛ばしてきた子も、今は私の伴奏がなければ歌えない。そのことに優越感とか、勝利感みたいなものを感じていなかったかといえば嘘になる。
そんなどす黒い感情を抱いていても、合唱は楽しかったし、クラスメイトたちのハーモニーは美しかった。音楽って不思議だ。

中学校に上がってからは私より上手な弾き手がたくさんいて、私はあっさりお役御免となりました。アイデンティティを失った私は、それでもピアノにすがり、当時のはやりの曲を耳コピして、友達にもてはやされて安心したりして。

高校以降は、私もある程度成長して人間関係で苦労することが随分減り。気づけばピアノに触れる頻度もどんどん減っていきました。それでも、本当に悲しいことがあったり嫌なことがあると、触りたくなるのは鍵盤で。没頭するように無心で何時間も弾けば、心がカラッとリセットされる感覚があり、それに何度も救われました。

このまま、ピアノは大切な趣味としてほそぼそと続けていくんだろうなと思っていたところに、おまみさんの歌との出会いがありました。

なんでかな。彼女の歌を聴いていたら、久しぶりにピアノに執着する気持ちが湧き起こってきたんです。

もう一度。今度は距離を保つためじゃなく、歌を支えさらに遠くに届かせられるような、そんな伴奏者になりたい。今は強くそう思っています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


(本文中の画像はphoto ACより)

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