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都内中央区でフリーランスで広告企画や映像制作を行っている43♂。八王子にある実家の両親…

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都内中央区でフリーランスで広告企画や映像制作を行っている43♂。八王子にある実家の両親が揃って要介護認定を受けてしまう。介護や医療の知識はゼロ。片道50kmの距離を移動しながら、メモとしてnoteに記録しつづけている。

マガジン

  • 親の介護は突然やってくる(要介護4の父と要介護5の母)

    突然訪れた親の介護。いつか「やっと終わりました!」って投稿が出来るまで。

最近の記事

母が亡くなりました

その日は突然でした。朝薄暗い時間にケータイが鳴っているのに気づく。寝室に持ち込まない生活にしているので、本当に微かな音が聞こえる程度。 電話に間に合うことが出来ず履歴を見ると姉から2回のコールとラインが入っていた。「お母さんが亡くなりました。」 慌てて折り返すと姉は既に病院に到着していた。僕が姉の電話に気づいたのは初めのコールから1時間後とその時に気づく。 母は入退院を繰り返していたのだけれども、今の病院に入ったのは2016年頃。だから今年で8年目。胃ろうもあり栄養は十分

    • 資本主義のその先

      サディステック・ミカ・バンドの曲を久々に聴いていたら「用意された明日、選ぶだけのいま」と。 なんとなくバブル前の微かな思い出の中で、何かを求めるときに選択肢ってなくて、他を選ぶなら「つくる」しか無かった感覚が残ってる。 「自分が」というよりも、世の中の風潮として。 それがバブルによって無駄に選択肢が増えていった感じもあって、それは今でも残ってるかな。 だから「クリエイティブ」が他者に委ねられたり、自ら生み出さなくても満足できる世の中になったのだと思う。 それはパターン化さ

      • 病床の人間の心理と思考

        全く異なる目的で選んだ本だったんだけど、思わぬ感情に触れてしまったのでこの場所でメモしておく。 闘病中の家族を看病する側の人に読んでもらいたい。いや、父を看病し見守っていた頃の自分に読ませたい本でした。 簡単に本の解説をすると、レース中に大事故に合ったレーサーが死の淵に立たされるけれども、大手術を繰り返し退院して日常生活を取り戻そうとするまでの話を、事故に合った本人が綴っている。 この本で初めて出会ったのが、極限に置かれた病院患者の心理を分かりやすい言葉で残している表現。

        • 父の何かを消す作業

          父宛に喪中葉書が来た。それを見て父の友人達に、父の死んだ報告をしなければと思った。 父のパソコンには年賀状ソフトが入ってる。その宛名リストを見ながら、親戚を除いた人たちを新規にリストアップした。 このリストは親戚以外の人たちなので、全ては父の友人となる。中には聞いたことのある名前もあるけれど、全く知らない人もいた。父はどんな交友関係をどんな人たちと育んだのだろう。 リストは19名。とても少なく感じたけれど、自分も死んだら一体何人に伝える先があるのだろう。 父が亡くなったこ

        母が亡くなりました

        マガジン

        • 親の介護は突然やってくる(要介護4の父と要介護5の母)
          95本

        記事

          父の友人から喪中葉書が届いた

          苗字は見覚えがある。父の同僚だ。 住所を見て思い出したのだけど、僕も小学生の頃、河原のバーベキューに連れて行って貰った記憶がある。 そういう年代なんだなとあらためて感じた。 今日ポストに届いた唯一の郵便物だった。

          父の友人から喪中葉書が届いた

          墓に入ることと子世代の無宗教観

          僕個人としては無宗教であるのだけれど、宗教を気嫌いしているわけではなくて仏像彫刻や人の心理的な影響としての存在は興味を持っている。美術的な視点や哲学的な観測みたいな学問的な難しいものではなく、もっとカジュアルな立ち位置。仏師知らないけどこの彫刻カッコいいな程度。 我が家は祖父母の代から檀家となってるお寺があり、なにかしら寺イベントがあれば祖母はお寺の厨房を仕切ったりしていた。これがまた大人数の食事を賄ったり、偉いお坊さんの食事や形式的なルールなんかも把握してお膳を用意したり

          墓に入ることと子世代の無宗教観

          僕の日常に親がいなくなった話

          父親の死後、淡々と業務的な手続きが進んでいく。急かされるままに葬儀や49日、年金の手続きやケータイの解約。さまざまに生きていた証みたいなものをひとつひとつ「死」というインクで塗りつぶしていく感覚。あまり心地よいものでもないけれど、特に忌み嫌う感じでもない。 自分の日常生活の中で「あ、父は死んだのだ」と思う瞬間は少なく、父を思い浮かべたとしても「死」が共存している感じもない。実家を離れて生活していく中で、いつのまにか父は「遠くに存在しているもの」として認識していて、それは亡く

          僕の日常に親がいなくなった話

          友との別れ

          9月末に亡くなった友人の小さな小さなお別れ会。亡くなった友人の彼氏を含めた3人で食事してきました。 友人は膵臓がんだったとのこと。 うーん。親父のことよりも悲しさは大きいことに驚いたりもしている。今はスマホがあるから気軽に記録残せるけれど、友人の声を久々に聞いて涙出ちゃった。 まだまだ未来しかない、仕事もこれからという時に。 亡くなって眠る姿が笑顔だった。その笑顔が僕の記憶の中の友人のままだったから安心してお別れしてきました。 これからこういう別れは増えるのかな。

          友との別れ

          49日を終えて、納骨

          姉の家で過ごしていた父の遺骨も49日と共に納骨となり、ようやく納まるところに落ち着いたのかなと。僕らのドタバタも一息着く様な気がした。 父の位牌をどうするか問題がここで立ち上がる。位牌を預かることの重さを姉も僕も感じていて、出来るならばお世話になっていたお寺に納めたい。それが僕らの希望。 祖父母の位牌は叔父、叔母に確認することにする。実家は空き家状態になるので、手入れ出来ない仏壇に納めたままでは申し訳ない。ただ、自分の両親に関しては自分たちの家に納めるべきでは?とも思うけ

          49日を終えて、納骨

          相続の手続きアレコレ

          父が亡くなったことのリアリティが無いままに49日を迎えようとしている。 実家に居ても父の存在が残っているからなのかもしれない。 お世話になってる会計の人から「相続の手続きは自分でやったほうが早い」と言われた。財産がシンプルで明確な事がその理由。 口座に残るお金と、クルマ、家と土地。以上である。 相続人も母と姉と僕という一般的な構成ということもある。 口座は残高証明を出してもらい全て母へ。クルマは廃車に向けて一旦僕の所有にする。自賠責が多少返金される可能性はあるけれど、傷

          相続の手続きアレコレ

          親が余命宣告されたらやっておくと良いと思ったこと

          父親が入院したのは76歳の時。 僕はその時42歳になったところ。仕事はそこそこ忙しい。「その時」と書いたのは既に過去の出来事だから。既に父は他界しました。 働き盛りの人の親が入院するとどんな事が待っているのか。そして僕自身が後悔した事など、まとめておきたいと思ってコレを書いてます。 この時には父は定年退職し、時間は自由な生活を送っていました。 母は脳の病気が重なり、介護を受けながら身体のリハビリと治療を受けられる病院へ既に入院していました。ここへのお見舞いが父の日課。 そん

          親が余命宣告されたらやっておくと良いと思ったこと

          親の死、その後

          手続きは一旦ペンディングして、止めてた仕事の対応に追われたここ数日。ここに来て疲れが見え始めた。 介護とまでは行かずとも、毎日病院へ通ったりして、日々変わりゆく父の姿を見なければならないのも辛かったし、介護オムツを買いに行くのも辛かった。 会話が出来なくなったり、記憶が曖昧になって行くのも辛かった。なんか、そういう「辛かった」って想いがいまフラッシュバックして来ている感じなのかな。 何をしても気持ち晴れず、変なことでイライラして、そんな自分に嫌な気持ちを持って、なんか変

          親の死、その後

          実家への通い道

          金曜日、ETCカードを実家のクルマに挿しっぱなしの上、駐車場のビルの入り口の鍵も実家に置いてきてしまっていることに気づいて、ふらりと実家へ打ち合わせの後にクルマを走らせる。 なんとなく見慣れたというか、ほぼ通勤の様に頻繁に通る道も秋の空の様子に色々な思いが広がっていく。とはいえ、哀愁漂うとか思い出に浸るとかでなくて、疲れからの思考停止という感覚が近いかも。高速道路はこういう時にゆっくり走るのは快適なもの。 ICを降りて実家への道は父の入院していた病院の横を通る。ウインカー

          実家への通い道

          父の葬儀を終えて

          日本の葬式なんてものは、役所への死亡届を出すのが当たり前なのと同じで、大概段取り的なモノは決まっている。宗教を信仰していれば多少のマナー違いはあるだろうけれど、基本的にはほぼ自動的に進んでいくものだ。 母が入院中なので喪主は僕が務めた。とはいっても、参列者は親戚のみなのでおじさんおばさんと従兄弟へ「来てくれてありがとう」と言うだけ。 通夜も告別式も出席者は同じだから、喪主の挨拶なんて何度も聞かせる必要あるのかなと、そんな事を思いながらマイクの前に立った。 病院から一度家へ

          父の葬儀を終えて

          父が亡くなりました

          朝病院から連絡があってあわてて病院へ。血圧が低く呼吸もたまに止まる。酸素も2kgくらいのプレッシャーで送られていて、酸素の数値は90後半。 僕らが到着してしばらくすると姉が息子(僕の甥)とやってきた。この時には姉が到着する前に息途絶えず良かったと思ってた。 しばらくは状況変わらず、数多も低いながら安定して、呼吸も止まりながらも酸素量は数値変わらず。 僕らは交代交代に昼食をとったりした。近くのファミレスへ。 主治医の診断でも、状況は良くないから今夜中にその時が来るかもと

          父が亡くなりました

          常に怯えて過ごす長い時間

          ツイッターで見かけた言葉 子供が3時間寝てたからといってゆっくりできた時間が3時間あったと思わないでほしい。その3時間はいつ中断されるかわからない3時間であって、はじめから約束され確保された3時間ではないのだ。結果として3時間何もなかったというだけ。 それだって思った。 父の命が「長くて1カ月」と言われて、なんとなく勝手にやや少なく見積もって父と向き合って来たけれど、どうもこちら側が疲れてしまった。 父と向き合って来たこの1カ月は、初めから予定された時間ではなく「いつ

          常に怯えて過ごす長い時間