人は死に方を選べない

色々と親の死に備えて、というよりも自分の中で未知なる不安が蓄積していく中で気晴らしに探索する中でそんな言葉を見つけた。「人は死に方を選べない」。

怪我でも病気でも日本では多くが病院での死を迎えるのではないだろうか。
治療が長引く中で施しようもなくなった患者さんが、家に帰りひっそりと死を迎える。そんなのは一部でしかない。と思う。

環境を整えること、付き添いする人を確保すること。それら家族の理解があってこそ。もちろん医者の承諾も必要になるから条件がとても多い。

とまぁ、自分がどこを選ぶとしても「いつ死ぬのか」だけは本当に誰にも分からないし決められない。

自分の死が分かるなら、死ぬ場所も選べるのかもしれない。でも、いくら健康的な人でも災難に遭遇すれば次の瞬間の生死さえ分からない訳で、そういう意味で時も場所も選べるものではないのかもしれない。

父の担当医は「最期まで看させていただきます」と申し出てくれた。食事が取れない状態だったから、病院でなければならない状況でもあった。「最期まで挑戦してみたい。」が父の口癖だったから、最期まで病院で闘病することは父にとっても望みであったと思いたい。

担当医から声掛け頂いたのが8月の7日。「長くて1ヶ月」との言葉も添えられていた。それから約3週間が過ぎようとしている。

姉は今週から仕事。ただ半休スタイルで夕方からは比較的動ける様にしているらしい。僕は仕事を止め…というより、仕事頂いている方から「付き添ってあげなさい」と言われていて、時間は自由な状態になっている。

もちろん収入が途絶えることを意味するのだけど、それでもこうした理解頂ける姿勢はとてもありがたい。おかげで仕事上のことは全てフリーにできている。

ただ、「いつその日が来るのか」を待つ身として、とてもストレスフルでもある。ベットの上で横になる父の変わり果てた姿を見るだけでも、正直キツイのだけど、それでも残り限られた時間を大切に過ごそうといろんな話をしている。調子が悪い時は僕が一方的に話すだけなのだけど。

父と向き合うことが大切と分かりながら、向き合うことで抱えてしまうストレスもある。苦しむ姿をたまに見ると、早く楽にさせてあげたいとも思う。でも、やっぱり少しでも長く話をしている時間は持ちたいと思うし、とても矛盾した気持ちが更にストレスをもたせてしまったりもする。

こういうの本当に難しいね。

頂いたお金は両親の病院へ通う交通費などに活用させて頂いております。感謝いたします。