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まちの緑の中継地点。「古樹屋」の思想と実践

こんにちは。
シモキタ園藝部理事のひとり、川崎光克(かわさきみつよし)です。
園藝部には立ち上げの時から関わらせてもらっています。
大学では建築を学びましたが、今は建築に限らず、協働でものや空間をつくることに関心があります。園藝部のイラスト担当だったりもします。

(写真:水木英)

この記事では、シモキタ園藝部で私川崎が担当している「古樹屋」(ふるぎやと読みます)という取り組みについて、ご紹介したいと思います。

古樹屋とは、超簡単に説明すると、
「育てきれなくなった植物を新たな育て手に届ける、循環型の園芸店」です。

どういうことか。もう少し具体的に、古樹屋が生まれたきっかけから説明していきたいと思います。

古樹屋が生まれたきっかけ

こや前で開かれている古樹屋の様子

古樹屋を運営する私たちシモキタ園藝部が大切にしていることに、「緑の循環」があります。

私たちは、里山の暮らしのように植物から生み出された恵みをいただき、それらをまた土へと戻していくことで、緑がより豊かに育ち、人と人が関わるきっかけとなるような活動を行っています。

シモキタ園藝部が取り組む緑の循環

こうした緑の循環に寄り添う活動を行う中で、まちの風景や暮らしに目を向けてみたとき、活かし切れていない緑がたくさんあることに気がつきました。

例えば、昨今大きな社会問題にもなっている空き家問題。空き家問題について語られる時、建物の話ばかりが強調されるけど、その庭に生えている植物たちのことはあまり語られない。そんな「空き庭」に放置されてしまった立派な樹木や草花は、人知れず放置されるか、伐採されゴミとして捨てられてしまう場合も少なくありません。

また、自分たちの暮らしに近い部分で言えば、ベランダや軒先で育てている鉢植えの植物も、引っ越しなどの理由で手放さなければならなくなることがあります。私自身も人生で何度か引越しを経験し、その度に増えすぎてしまった植物は誰かに譲ったり、また譲り手が見つからない場合は泣く泣く捨てることになってしまう植物もありました。植物も命ですから、それはとても心が痛むことでした。

こうした、人間の手入れを受けることができなくなってしまったり、行き場を失ってしまった植物たちと、植物を手放すことで心を痛めている人々を、どうにか救うことはできないか。愛情を持って育てられた植物たちが、「廃棄される」以外の選択肢を歩むことはできないか。
植物も生命でありながら、植物を「生かし、つなぐ術」をこの社会はまだ十分に用意できていないということへの気付きが、古樹屋というアイデアが生まれるきっかけとなりました。

緑が社会の共有資源と成っていく

もう一つ、古樹屋について語る上で重要なポイントとして、「緑は共有資源である」という考え方があります。私たちシモキタ園藝部は、この考え方を基本理念として緑に接しています。

ここでいう共有資源とは、里山の入会地*のように、その地域に属する全員が所有し、全員で了解したルールのもと、全員が使うことができる資源のことです。誰かに管理されるのではなく、自分たち自身の手で管理している場所や資源のことを指しています。

*入会地:入会権(一定の山林原野または漁場に対して、特定地域に居住する住民が、平等に利用、収益しうる慣習法上の権利)が設定されている山林原野または漁場。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

私たちシモキタ園藝部の主な活動は、広場や沿道、商業施設の共用部に植えられた公共的な緑の手入れ(メンテナンス)です。まちの緑のメンテナンスやその緑を使ったワークショップなどを通じて、まちの風景づくりに参画している感覚とまちの緑を活かすことに対する手応えを得ることができます。こうした作業を繰り返している内に、まちの緑が自分の家の庭の延長のように感じられてきます。
例えば、緑道沿いの雑草の刈り取りを何度か経験すると、その道を通るたびに雑草が生えていないかどうかが気になるようになってくる。そうした一人一人の緑に対する気遣いや愛情の集積が、親しげなまちの景観を作っていきます(実際の草取りはもっと根気のいる作業ですが)。
このような感覚を持った人々が増えていけば、緑が、これまで特定の管理業者しか触れることが許されていなかった公共物から、誰もが触れることのできる共有資源へと、その意味が変化しています。

シモキタ園藝部が主催する「まちなか園藝教室」で低木を剪定する参加者
メンテナンスの中で発生した枝や草花は捨てずにブーケなどにして活用する

さらに、私たちは、個人が所有する緑も、その見方を変えれば社会の共有物と捉えることができると考えています。(あ、もちろん、人の家の庭の木を勝手に剪定したりするわけではありませんよ!笑)

「養蜂」を例に取って説明します。
私たちは下北沢でミツバチも育てているのですが(シモキタハニーという下北沢産天然非加熱ハチミツを製造し、シモキタ園藝部ちゃやにて販売しています。シモキタハニーについては以下の記事をご覧ください)、

都市をナワバリとする彼らは、巣箱から半径2km程度の範囲を、蜜を求めて飛び回ります。その時々で開花している花を見つけては、蜜を吸い、巣箱へと運びます。この時、彼らにとって、蜜を吸う花が公共のものか/個人のものかは当然ですがこれっぽっちも関係なく、彼らは自由に飛び回り、花粉を媒介して植物の実付きを良くしてくれます。

自分が好きで育てている鉢植えも、蜂が媒介することで、まちの植物の実りを豊かにする要素になる。昆虫や動物たちは我々人間が作った境界線を軽々と越え、一つの生態系を作り上げていると考えると、ベランダの植物ももはや自分だけのものではない感覚になってきます。(個人所有の緑→共有資源としての緑)

人間が設定した線を自然が越境していく状況は、他にもよく見られます。例えば土壌の改良のために地面に穴を掘れば、根っこが敷地を越境して伸びていく様子を見ることができます。これもまた当たり前のことですが、植物自身も土の中では自由なんだと改めて確認できます。また、私たちは植物が作った酸素を体内に取り入れて生きていますが、「どの木から生まれた酸素か」などといちいち空気を選んで吸うことはできません。
私たち人間が設定した境界線が動植物によって溶かされていることに気づいた時、緑は社会全体で共有しているものだと捉えた方が自然なのではないかと思えてきました。

私は園藝部での活動を経る中で、緑が持つ力と恩恵に気付き、園藝部が掲げる「緑は共有資源である」という考え方を、実態を伴った感覚として、肉体と脳に落とし込んでいくことができました。


どんな緑も地域、いや、地球にとっての共有財産!

前提となる考え方の説明が長くなってしまいました。
緑を「生かし、つなぐ」こと(循環)と緑を社会の共有資源と捉えること。この二つの軸が古樹屋という店の考え方の根幹となっています。

古樹屋は、まちの緑の中継地点

上記のような考え方を基盤として、古樹屋では、訳あってお世話をしきれなくなってしまったお庭や、解体される建物のオーナーさんなどからご依頼を受け、植物を引き取り、園藝部の拠点「こや」の前やボーナストラック等で開催されるイベントに出店し、新しい育て手に植物を手渡す活動をしています。

そう、それはお店でありながら、「売る」というよりも「渡す」感覚に近い。

誰かが育てきれなくなってしまった共有物である緑を、一旦私たちが預かり、次の育て手(預かり手)を探すための中継地点としての店。次の育て手にも預かる感覚で引き取ってもらう。
そんな風に無理なく植物を扱う方が、園藝部が主催する植物のお店としては自然なのではないかという考えに至りました。

解体現場より引き揚げた植物たち

値段の決め方

では、「売る」ではなく、「渡す」とした時、どのように値段をつけるのか。そもそもお金をもらうべきか?

「まちの緑の中継地点としての店」であることをコンセプトに据えた時、私はどうしても植物に値段をつけることに抵抗がありました。
値段をつけることで、突然植物が「商品」になり、「消費」の対象となり、誰かに「所有」されてしまう。それは、私たちのコンセプトと反しているのではないか。
そもそも、植物の値段は、一般的に世の中の需給のバランスや入手の容易さ、珍しさ、輸送コストなどさまざまな要素を組み合わせて相場が決まり、売値が決まっていきますが、まちの育てきれなくなった緑を預かり、新たな育て手に渡すというイレギュラーな植物の流通のさせ方をしている私たちにとって、従来の値段の決め方はマッチしていないのではないか。

そんな疑問の渦に苛まれながらも、この活動を続けるためには、シモキタ園藝部が経営的に持続しないといけませんから、植物をただ単に「引き取る」-「渡す」だけではなく、金銭ないしは金銭的価値のあるものと交換するということと向き合わねばなりません。植物を消費の対象とみなすのではない、植物との新しい関係を築くきっかけとなるような、交換の仕組みを発明する必要がありました。

言い値で値段をつけてもらう

そこで私たちは、自分たちが勝手にその植物の価値を決めてしまうのではなく、預かり手自身にもその価値を考えてもらえるような仕組みとして、言い値を採用しました。
その植物が育った年数、掛けられた手間、形の美しさなど、その植物を欲しいと思った人が、自分自身の感覚や想像力に基づいてその価値を判断し値段を付ける。
私たちはあくまで中継者として、その植物の情報を預かり手に提供したり、この活動のことを伝えるという役割として店に立ちます。

こうした少々面倒くさい方法を採用することで、植物が共有の財産であるという感覚を少しでも多くの人と分かち合うことができないかと画策しています。

ある日の古樹屋

植物と交換されたお金の使い道について

いただいたお金は、今後より多くの緑を救うために使わせていただきます。
ありがたいことに、古樹屋の活動を知ってくださった方から「うちの植物も引き取ってくれないか」とご相談いただくことも増えてきています。
今はまだ少人数体制で行っていることもあり、なかなか全てのご相談にお応えすることはできていないのですが、集まったお金はできるだけ多くの植物の命を繋ぎ、健康に育ってもらうため、具体的にはご相談を受けた際の植物の運搬費や土や堆肥の購入、園藝部の拠点の経費(家賃・水道代等)として活用されます。

古樹屋の、これから

古樹屋は昨年の5月から始め、シモキタ園藝部の有志のメンバーが月に2回ほど集まり、お店を開いてきました。まだまだ始まったばかりで未だ整っていないことも多いですが、自分たちができることから、少しずつ進めています。そんな私たちが、これからもっとたくさんの方にシモキタ園藝部の取り組みや緑に対する考え方を知っていただき、仲間を増やしていくためにやりたいことが二つあります。

<これからやりたいこと>

古樹をまちに還元する
おかげさまで、たくさんの方からお声がけをいただき、お庭やベランダで育てきれなくなってしまった緑をお預かりする機会が増え、私たち園藝部の拠点も随分と緑豊かになりました。ただ、人の背丈を超えるような樹木も増えてきており、そういった樹木は個人の方向けの古樹屋の開催だけでは、なかなか引き取り手が現れません。
そのため、今後は、個人に対する小売的な店の形態だけではなく、公共空間や施設の外構、住宅の庭などを手がける造園業者の方などに古樹を引き取ってもらうことで、まちの景観に古樹屋の樹木が活用されていく仕組みも作っていきたいと考えています。

お互いにより気持ちの良い、お金と植物の交換方法を定める
先ほど、「言い値で値段を決めてもらう方法を採用した」と書きましたが、この仕組みは完全ではないことがわかってきました。
完全に言い値にしてしまうと、極端な話、一日がかりで運搬した鉢を1円で持っていかれてしまう可能性もあり、それではあまりに私たちの負担が大きすぎる。
また、私たちは集まってきた植物を日々管理しているわけですが、そうしていると愛着が芽生えてきます。今のままだと、愛着が芽生えた植物をこれまた1円で持っていかれてしまう可能性もあり、私たちも人間ですから、愛着を込めて見守っていた植物にものすごく安い値段を付けられてしまうと、がっかりしてしまいます。ただ、言い値という仕組みを採用しているのはこちらなので、私たちも付けられた値段には何も言えず、お客さんとの間に気まずい空気が流れるということが、数回お店に立つ中で、わかってきました。
これでは、私たちも、せっかく興味を持ってお店にきてくれた方も気持ち良くない。お互いが気持ち良く植物とお金を交換できる仕組みをつくりたい。例えば、最低金額を定め、最低金額+αのαの部分を言い値で決めてもらうような方法などを検討中です。最低金額の定め方などまだ整理中ため、近々お知らせしたいと思います。

社会全体で緑を育てる

以上、長くなってしまいましたが、古樹屋の紹介をさせていただきました。
時間をかけて育てられた植物と、その植物を大切にする心が少しでも救われ、新たな場所で再び愛されるように。
誰かの所有物である緑も、社会全体で循環し、メンテナンスし続けることができれば、まちの風景の見え方も変わり始めることでしょう。社会が植物を共有財産と認識する日もやってくるかもしれない。
古樹屋はまだまだ小さな取り組みですが、そうした社会を切り開いていく一つの道になるといいなと思っています。

古樹屋に興味がある方は、ぜひ一度、開催日にお店に遊びに来てください。

(文責:川崎光克)

<古樹屋に関するお問い合わせ>
インスタグラム @furugiya_oldplants へDMをお送りいただくか、info☆shimokita-engei.jp(☆を@に変更しお送りください)まで、ご連絡ください。開催日等はinstagramにて随時発信しています。
https://www.instagram.com/furugiya_oldplants/


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