【往復書簡】(仙仁透様)

仙さんへ

海沿いの田舎町なんかで、そこには初めて来たはずなのに何と無く懐かしい気持ちになる場所があります。「あれ、来たことあったっけ?」と一瞬自分を疑うほどに既視感がある風景。記憶っていい加減なものだなと呆れ半分で、でも見慣れた景色に安心感を抱いたりします。仙さんがお生まれになった浜松にもまだ伺ったことはないのですが、お話を聞くだけでもおそらく懐かしい気持ちになるんだろうなと勝手ながら思いました。

僕の脳内で浜松に紐づいて連想される単語が「餃子」と「家康」ぐらいしかなく、あらためてちょちょいと検索してみたんですが、全国で二番目に面積が広い市(ちなみに一位は岐阜県高山市)なんですね。浜松城と島原城。その規模にこそ果てしのない差はあれど、同じ城下町として親近感を覚えます。自分で言っててなんですが、随分と一方的で乱暴な親近感です……

ぬるっと本題に入っていくんですが、言葉って面白いですよね。仙さんが書かれたことを逆にしただけなのですが、それぞれで異なる景色を思い浮かべているはずなのに、それを共通の話題(共感)にできることは言語化の醍醐味です。

さっきの話でいうと、「浜松城」と「島原城」は異なるものですが、情報を省いて《城》にすると話の共通項になります。これと似たように、誰かとの会話以外でも、自然と目の前の景色のことを《海》、《田畑》、《空》など固有の部分を削いだ情報として認識しているような気がしました。それが知らない土地でも既視感を覚える原因なのでしょうか。

とはいえ毎度情報を省略するのが良いとは限りません。

例えば待ち合わせ。「では海に集合で」と言って僕と仙さんが出会える可能性は限りなく低いと思います。お互いの間でよっぽど「海=○○(特定の場所)」が共通認識できているならまだしも、そうじゃなければそれぞれが予想した集合地点で待ちぼうけすることになるでしょう。

お互いの関係性だけではなく、場所によっても違います。これは聞いた話ですが、都会と田舎では「マクドナルド集合」と言われたときのリアクションが異なるらしいです。確かに言われてみれば、僕の故郷島原にはマクドナルドが一箇所しかないので、みんな自ずとそこを思い浮かべます。一方で例えば京都でマクドナルド集合ね、と言われると「どこの?」と聞き返してしまう。

そんなことをどんどん考えていくと、情報の省略度合いは時と場合で調整する必要があるでしょうし、となるとやっぱり言葉はもっと丁寧に扱わなければならないなとあらためて気づかされます。そしてうまく調整するために、まずは認識した情報を解像度落とさずに言葉にできることが重要な気がしています。言うのは簡単ですが、これがめちゃくちゃむずかしい。

自然の情報量はデジタルのそれを上回るというお話もあまり考えたことがなかったので、とても新鮮な気づきでした。そしてその有り余る情報量も今の自分というフィルターを通すと、ごくごく一部しか残らないような気がして、なんだか勿体無さを感じます。もちろん情報を丸のまま取り込むとあっという間にパンクしてしまうので、そうならないための自己防衛なんでしょうが。自然の持つ情報量を全部取り込めたら自分がどうなるのかはちょっと気になります。

時には本能で、時には意図的に、そして時には怠慢で言葉を省略している我々ですが(と括っていいのかは定かではないですが)、あまり省略に慣れすぎるといざという時に使えない目の荒いフィルターになってしまうので、時には面倒くさがらずに省かず受け取る(そして伝える)訓練をしていきたいですね。

話は変わりますが、先日福岡で九鬼周造の『「いき」の構造』に関する論文を読む読書会に参加をしてきました。もう随分前から「現代における《いき》ってなんだろうか」という疑問を持っているのですが、いまだに答えは出ません。とりあえず少なくとも「無粋じゃない状態」のことを指すんだろうなという観点から、まずは「無粋とは何か」ということを日々考えています。

ここでいう無粋は、野暮や不寛容と言い換えても良いのかもしれませんが、昨今の人間関係における様々なトラブルの要因が潜んでいるような気がしていて。そしてその解決策として《いき》という状態(関係性)について今一度考えてみても良いのかなと思うわけで。

さて、そんな話をしながらさっそく野暮な質問をしますが、仙さんは《いき》という言葉から何をイメージされますか?

2019.10.13
最近色々な『二階ぞめき』を聴き比べているシモダヨウヘイ

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