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みんな何者でもなかった。だから機会を次につなぐことには責任がある。

僕はこれまで幾つものシェアハウスの立ち上げに関わってきた。携わったシェアハウスはどれも、ただ友達と住むというのではなく、コンセプトありき共同生活。住人も入れ替わるし、リビングも開放されているという点で、プライベートとパブリックの間にあるコミュニティだった。主客も各役割もすごく曖昧で、それが醍醐味でもあった。

なかでも、家入さんと一緒にやっていた「リバ邸」は訪れるたびに居る人が変わっていて、混沌としていた。コンセプトは「現代の駆け込み寺」。都心部でも約3万円で住むことができ、いつでも誰でも遊びに来れる、開かれた居場所。社会学者の宮台真司さんは、「ここはアジールだね」と評してくれた。

“教室では学ぶ人・廊下では通行する人。ところが屋上に上がれば「何者でもない人」になれた。僕たちは昨今「何者でもない人」でいられなくなった。アジールは「何者でもない人」でいられる場所のこと。そうした場所を提供するリバ邸の理念に賛同します。”
– 宮台真司

だれもが何者でもないからこそ、フラットにつながれる。同時に、何者でもないがゆえに、健全なコンプレックスを持ち、努力した。もがき苦しみながら、何かを学び、何かを形にしようとした。すぐに自分を変えられない者も少なくはなかったが、リバ邸に住み始めてから起業したり会社に入ったりして活躍した者も多く、駆け込み寺の存在意義を感じた。

もちろんリバ邸には様々な問題があった。片付けせずにゴミ屋敷化する、滞納者が出てきてキャッシュフローが回らない、騒音苦情で追い出される、狂人が現れる、など報告受けるたびに頭が痛かった。しかし、それらは反省し、改善すれば良い話だ。一番の問題は、“自分が何者でもなかったこと”を忘れる人間が出てくることだった。

「これ以上、怪しい人が来ないように、現代の駆け込み寺と掲げるのを止めよう」とか「ルールを作れてない運営側のせいだ。ちゃんと管理してください」とか。また立ち上げ時に必要だったお金を分割負担することに「なんで今住んでる俺が払わなくちゃならないの?」とか。また卒業した人にサポートを請うと、「もう出たから俺には関係ないです」とか。

彼らの言ってることは正論だ。まるで通常のマンションに住む、お客さんのような発言だ。でもここは市場原理で成り立つマンションじゃない。リバ邸だ。思い出してほしい。何者でもなかった自分が、いまの仕事や居場所、自信を手に入れられたのは、そんなリバ邸があったからではないか。いろんな問題はあるけど、すべての人にオープンだった現代の駆け込み寺だったからでないか。何者でもない自分にも機会をくれたからではないか。

人は、当たり前になったことほど、すぐに忘れてしまう。僕らはみんな何者でもなかった。そこから何か自分が提供できる価値を見つけ、手にすることで、何者かになった。成長するとすべて自分で獲得したと思いがちだが、その源流には誰かが用意してくれた機会があったはずだ。だから、その機会を次につなげることに、責任を持たなければならない。いま機会を待っているのが、あの頃の自分だったかもしれないわけだから。