見出し画像

育休ライフ 45週目

いつも閲覧ありがとうございます。
半径5mの人を幸せにしたい、シムラトモタカと申します。
8年間中学校教員ののち小学校へ異動して、今は育休取得中です。
ここでは、育休取得中に感じたことや娘の成長、仕事を離れることで見えてきたことなどを中心に書いていきます。


今回は一つのテーマでお話しします。


屠畜場


今日、娘を保育園に一時的に預け、千葉県食肉公社に行ってきた。いわゆる屠畜場である。屠畜場とは、家畜(牛、豚、鶏など)を殺して食肉に加工するところ。屠畜場の規模は様々だが、今日見学した施設は千葉県でも比較的大きな屠畜場だった。

私自身、「屠畜」という言葉を知ったのが今年で、運転中にたまたま「と畜場」という看板が目に入り、気になって調べて知ったことが始まり。家畜が私たちの手元に届くまで、誰かが加工してスーパーに並べてくれていたのだが、そんなこと気にしたこともなかった。食について考えるうえで、屠畜場は自分の目で見て肌で感じたい場所だったのでアポを取り見学させてもらった。実は家の近場でもう一つ屠畜場があったが見学を断られてしまったので、はるばる旭市まで向かった。車から降りたときのにおい、牧場のような、獣臭のような野性的なにおいが印象的だった。

千葉県食肉公社の担当の方はとても親切で、私がなぜ見学したいのか、私がどんなことを思い描いているのか真剣に耳を傾けてくれた。そして、屠畜場での屠畜から食肉加工までの流れや、屠畜業の歴史など詳しく教えてもらった。たくさん教えてもらったことをいかに箇条書きでまとめる。長い。

屠畜場について
・屠畜業は昔、身分の低いものの仕事であり、職業的な差別があった。(江戸時代の「えたひにん」の身分のやる仕事)
・現在、差別的なことはのこっていない。
・千葉県食肉工場の場所は、昔は空軍基地の場所。現在の会社になる前は行政が管理していたが、赤字続きで民営化した。
・千葉県食肉公社は主に牛や豚を屠畜する。まれに馬やヤギも来る。
・1日に牛だとMAX120頭、豚だとMAX1850頭を屠畜する。計算上、豚は12秒に1匹ずつ屠畜される。
・豚1匹を食肉加工するのに水1トンを使用する。
・年間電気代は約2億円
・屠畜場のメンテナンス代も約2億円
・だから、利益は出ない
・それでも肉を食べる限り、絶対になくならない仕事

屠畜に関して
屠畜の現場は公開していないので、屠畜後の加工部分を見せていただいた。
・牛は麻酔銃、豚は電気でそれぞれ失神している間に胸を裂き血抜きをする
・失神した牛や豚がすぐに起き上がることもあるからスピード重視
・牛や豚は自分が殺されることをわかっていない。(牛は稀に係留場から出ないものもいる)
・屠畜された後は機械で吊るされて食肉加工ラインにいく。(皮を剝ぐまでは動物、皮を剥いだら肉、といった感覚が自分にあったのが衝撃的であり不思議だった)
・豚の皮を剥ぐ、豚の体を真っ二つに切る機械はあるが、それ以外の作業はほとんど人の手で行う。牛の体を真っ二つにするのも人力、内臓を取り出すのも、首を切るのも人力。
・生き物を扱うため、個体差があることから、機械化は難しい。沖縄などでは皮を剥がずに食肉加工する方法があり、その方法だと機械化できる部分が増える。
・皮を剥ぐ機械、豚を切る機械はどちらも約2500万円。
・脂のにおいなのか、獣のにおいなのか、独特なにおいがする。生命のにおいだと私は感じた。
・正社員だけでなくパートさんもいる。公社全体で数百名働いている。
・衛生的な管理が行き届いている。

担当者の方とのお話
二人の担当のうち、一人が勤続30年以上の大ベテランだったので詳しいお話を聞くことができた。
・一般の方は大変な仕事だと思われるが、意外と作業は単純で特殊なことはないのですぐ覚えられる。あとは自分の役割の場所で、自分のやるべき作業をすればよいので、難しい仕事ではない。
・動物に対する気持ちや命に関することなど、重く考えていないわけではないが、重く考えると仕事にならないから、従業員は淡々と仕事をしている。
・家畜は食べられるために生まれている。かわいそうと思う気持ちもあるが、食べているのは私たちである。
・屠畜する場所では壁一枚はさんで片方は活きていて片方は死んでいる状態の部屋がある。はじめはそれを受け入れるのがしんどかった。
・屠畜してすぐに解体すると、家畜の体温を感じながらの作業になる。人間と同じ哺乳類なので同じくらいの体温がある。作業は暑い。そして、屠畜してすぐの内臓は蠕動運動をする。
・豚はどの豚もおいしくなってきているため、味の差があまりない。
・豚は吊るし肉で1頭5万円。それを加工(スーパーで並ぶような形にする)すると10万円くらいになる。
・担当者から子供に伝えたいことは「全部食べてほしい」「食べるまでに多くの人が関わっていることを知ってほしい」
・家畜は骨まで加工して余すことなく使われる。食肉にならない部分も、工業製品として生まれ変わる。ただし牛の骨はBSE以降肉骨粉として使えなくなった。

見学を終えて
・食卓に並ぶまでに、本当に多くの方が関わっていることがわかった。家畜の命はもちろんのこと、家畜の命を大切につないでくれる食肉加工の方や卸売業、スーパーなど、命のリレーがなされていることを実感した。命をいただいている、ということをより実感したし、今までのいただきますの気持ちは軽かったと反省した。
・昔は家に畜舎があり、家畜を飼いながら生活していた家も多かったらしい。家畜として飼っていても、何年も一緒にいると情がわく。そしてその家畜をいただくとき、本当の意味の「命をいただく」意味が分かるのだと思った。私もいつかは家畜を飼い、命とは何なのか、考える機会が欲しいと思った。
・皮を剥ぐまでの家畜、皮を剥いだ後の家畜の、自分の見方、感じ方が衝撃的だった。皮がついていると見た目は動物、私も動物園や牧場にいる牛や豚を想像し、苦しい気持ちになった。しかし皮を剥いだ状態、つまり食肉になった状態の牛や豚を見ると、いわゆる”加工品”としてとらえている自分がいた。そこに感情はなく、むしろ奇麗に加工されている姿を美しくも感じた。薄情かもしれないが、自分とは所詮、こんなものなのかと思った。その一方で、屠畜されて動物の状態の家畜が食肉として姿を変える工程を自分の目で見たことにより、その現実を知ったことで、命をいただいているありがたさをより実感できるのだとも思った。


私たちは日々お肉を食べているのにも関わらず、そのお肉がどのような過程で自分の食卓に並んでいるのか、それを知らなすぎると思った。自分は今回見学をしたから偉い、とかではなく、もっと屠畜場が身近にあっていいと思ったし、もっと屠畜について理解があってもいいと思う。きっと昔は今より屠畜は身近にあったと思う。つまり命を考え、命をいただく本当の意味を知る機会が身近にあったはず。だから現代みたいに「命は大事」と言わなくても、自然と命を大切にして生きていたと思う。

命をいただくこと。担当の方はそんなに重く考えないでいいとおっしゃっていたが、現代に生きる人間は命を粗末にしすぎていると思う。食べ物を平気で残す、簡単に人を殺す、動物を殺す、自然を破壊する、そして自分を殺す。きっと命はリレーのようなもので、巡り巡って今ある命が存在しているのだと思う。だから、いまいただいている私たちの命は、きっと次のどこかで生きる命につながるし、私たちが食べた命は、私たちのエネルギーとなり生き続け、そのエネルギーを使ってまた新たな命が紡がれていくことで、命は脈々とつながり続けていくのだと思う。みんな命は繋がっている、そんな気がするからこそ、もっと命を大切にしたいと思うし、人間はもっと命を大切にしてほしいと思う。
うまくまとまらないけれども、今日見た景色はきっと心に残り続ける。そして今日感じた命のリレー、命のつながりは今後の私の指針となると思う。


長文失礼しました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?