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得手不得手、その先へ


流暢な喋り手=すごい人

「なぜあれほど流暢にしゃべれるのだろう…すごいな」
私は日頃、ラジオをはじめとして、Xのスペースやstand.fm、ポッドキャストなどの「聞く媒体」を利用することが多い。

その中にはおひとりで話されている方もたくさんいらっしゃる。
純粋にすごいと感じる。
話し相手がいない1人の状態で、つかえることなくすらすらと話ができることが。
私にはそれが難しい。

集団より1対1

私は普段、あまり自分のことを喋るタチではない。
特に集団でいると、
「あの人が楽しそうに喋っているな。」
「あの人が喋りたそうにしているな。」
「この人の話を周りの人も楽しそうに聞いているな。」
「自分の話を挟んでこの人の話を遮るのは気が引けるな。」
など、周囲の状況を見て、自分が話す機会がないまま会合が終わることがほとんどだ。
そのため、集団での会合で特別私の印象が相手に残ることも少ないし、私自身が集団に対して何かを話すことも多くない。
(前職では日常的に子ども達に授業で話す機会があったわけだが。)

私自身も誰かと会う際には、集団より1対1で会うことを好む。
私と1対1で会おうとしてくれる人は、
「少なくとも私に会いたいと思ってくれている人」
「私に話を聞いてほしい人」
「私の話を聞きたい人」
だろうという前提がある。

だから、1対1で会った人とはよく話すし、仲良くなれることが多い。
「あなたと2人で話せて良かった。」
「楽しい時間だった。」
「こんなにすてきな人だったんだね。」
「また話そう(会おう)!」
1対1で会った方からは、そのようなことを言ってもらえることもある。

それでも私の基本スタンスは、
「質問して相手の話を聞く」
だし、
「質問されたら自分の話をする」
というものだ。

性格的にも、習慣的にも、
自分の話を喋るという機会が少ない。
これはパートナーと一緒にいても同じことが言える。
嫌いなわけではないのだが、私は喋ることが決して得意なタイプではないのだろう。
きっと私にはじっくり考えて表現できるnoteのような「書く媒体」の方が向いているのだろう。

喋ること…
私にとっては的確に質問をしてくれる優秀な聞き手がいることではじめて
「喋り手としての私」
が出現するのかもしれない。
なんて面倒くさい奴だ…苦笑

得手不得手はあるけれど…

人によって得手不得手はある。
だがそこで
「苦手だから自分には無理だ」
と心のシャッターを閉じてしまったら、そこから何も発展しないだろう。

もし私が前述したような方々と同じように流暢に話をするとしたら…
・予め引き出しを多く持っておく(様々な経験を積む)
・話のネタを作っておく
・原稿を作る
・メモを作る
など綿密な準備が必要だ。

思えば前職で子どもに授業をする前にも、どれだけ時間がなくても最低限の授業準備をして授業展開を想定しておくことが質の担保と心の安定に繋がっていたように思う。

比重の大きさ

ここまで書いていて改めて気付いたことがある。
それは、私が
「聞き手がどう感じるか」
に、かなり重きを置いている人間だということだ。
(簡単に言えば「気にしすぎ」ということ…苦笑)

・聞き手にとっての興味の有無
・聞き手の思考と話の流れ
・聞き手にとっての聞きやすさ、わかりやすさ
・聞き手の気持ち…など

上記のようなことに勝手に雁字搦めになって、喋りにくい状況を自ら作り出しているように思えた。
「気付いた、だから変える!」
そんな簡単にいかないのはわかっているが、現状を自覚しておくに越したことはない。

その先へ

「向き不向きより前向き」
という言葉がある。
(調べてみたらどうやら元々朝倉千恵子さんという方の言葉らしい。)

人によって向き不向きは多かれ少なかれあるだろう。
「向き」だけに特化して自分の思いを見失うのもちがうし、
「不向き」を避け続けて選択肢を狭めるのもいやだ。
「前向き」に自分の思いを実現する方法を探り、
得手不得手だけに振り回されることなく過ごしたい。

今自分の心がどこに向いているのか。
そこに向かうためにはどんな道が有効なのか。
より効果的にするために必要な工夫は何なのか。
そんなことを総合的に考えながら、
得手不得手、その先へ。

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