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なく

『もうそっちのことさなんの感情もないから』
 はい? それってどういう意味合いでいってんの? そっちってあたしのこと?
 そっち。あっち。道を聞いているわけでもないのにあたしの名前はどうやらそっちであり彼がいうそっち(すなわちあたし)のことを恋愛対象として見れないという意味でいっている。のはわかっていたけれど敢えてとぼけたふりをした。
『だからさ、もうあう理由もないしあいたくないっていうかあえない』
 電話だから相手の顔などまるでみえないけれど布団の中でこそこそと電話しているさまは簡単に想像できた。
 
 知り合って間もないとき奥さんと子どもらが実家に帰っているからうちに来ないか。と誘われたことがあった。その当時はお互いまだよそよそしくて彼はあたしに敬語を使っていたしなにせあたしも敬語を使っていた。彼の名刺をつくったことによって出会ったので最初出会ったころのまま敬語で来てしまっていた。けど自宅に行った日はもうすでに大人の関係だった。『不倫だね』『やばいね』などといいあいクスクスと笑いながら朝までお喋りをした日を思い出す。彼のうちは雑多にものが置いてありけれどどこか幸せが滲み出ているこじんまりしたうちだった。彼が息子さんと一緒に眠っているという部屋で一緒に眠った。泊まるつもりなどなかったけれど泊まった。彼のうちはあたしのうちから車で5分くらいなのでまいっか朝帰れば。と。
 その部屋の布団の中で電話をしている。もう絶対に行くことのない部屋。布団の中。パンツ一丁の彼。
『出れるならあいたい』
『どうして』
 どうしてって。あいたいことに理由なんてあるの? あたしは押し黙った。
『──今日さ、嫁さんがいないんだ』
 カップヌードルが出来上がるくらいの時間まったあと彼が口火を切った。
『──20分後にセブンに来て』
 ちょっとだけ考えたあと彼はひどく不愉快そうな声でいいすて電話を切った。

 「どこにいくの?」などと野暮なことはないに等しかった。ホテルにいき簡単に抱かれ簡単に済まし簡単にまたねといいあった。
 あわなければ良かったな。
 あたしはおそろしいほど後悔の渦に飲み込まれた。この日を境にあたしは一段と生きる気力を失った。彼がはっきり公言した『そっちをもうなんとも思えない』発言が身体と心と脳内にこびりついて離れないのだ。今までは少しでもあえて嬉しかった。顔が見れて嬉しかった。単にあたしにあう時間を作ってくれていたことが嬉しかったのだ。忙しいしリスクもあるなかまだあたしにあってくれる。彼はまだ少なからずあたしのことを好きでいてくれている。そう決め込んでいた。けど。まるで違ったのだ。
 ただめんどくさいからあっていたのだ。まあヤレるし。みたいな感じで。あたしは頭がわるいからそれを愛だと勘違いをしいい女を演じた。好きだったから。ただ好きだった。それだけだ。

『そっち』のあたしは今はもぬけの殻で気をゆるせば涙を浮かべて決壊寸前で止めるというゲームを楽しんでいる。たまにゲームに負けると頬に涙が伝う。涙の温度って体温と同じなんだよなぁ。あたしなんで生きているんだろう。もう誰も好きにならない。深くしようとしない。傷つくのはいや。こわい。好きな人の心があたしから離れていくのが世の中でいちばんこわい。きっともう深く人を好きになることはないだろう。あたしは彼を多分もう好きではない。諦観だ。

 電車に乗ってヘルスに行く。車窓から流れる景色は見慣れた景色だし毎回変わったためしはない。けれどもそんなオカルトはないのだ。じっくりとみればきっと何かが変わっているに決まっている。毎日が同じなわけがない。時間など目にはまるでみえないけれどおそろしい速さで流れているのだ。

 今まで彼のことでたくさんの涙を流した。
「冗談じゃない」
 あたしは憤怒を隠せない。高架下。たくさんの車が流れている。あの道、彼と通ったな。とものおもいにふけていた日々。
 そっと車窓から目を逸らす。そうしてiPhoneにイヤホンを差し込んでmiwaのrebootを流す。

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