エアプ鑑賞(橋爪志保『地上絵』から)

私は『地上絵』は未読だし、内容も知りません。したがって、これは「しらんけど、これはこういうことじゃね?」と言いたいだけのメモです。

上の記事は「橋爪短歌の最大の魅力は『喩の飛躍』」だと言っています。それがもっともな感想なのかは、もちろん私には判断できかねるのですが、まあ、実際にそうなのかもしれません。

ただ、掲出歌を見るかぎりでは、橋爪さんの短歌はわりと素直な喩をやっているタイプの作品にも見えます。もっとも、掲出歌についてはいずれもちょっとハイコンテクストというか、あまり親切じゃない言い方をしている感じはあるので、これらの喩がずいぶんと遠くに飛躍しているように見えているのだとしたら、それはどこかでズレてるせいかもしれません。

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一首目。

僕たちは蛾のように飛ぶ蛾になって、それもでかい蛾 社会が苦手

「僕たちは蛾のように飛ぶ蛾になって」ですが、これは「僕たちは蛾のように飛ぶ。蛾になって~」ではないように見えます。これは「蛾のように飛ぶ蛾」がまず分かちがたいひとまとまりなのでしょう。

「でかい蛾」って、だいたい飛び方がぎこちなくて、「おまえ翅生えてるのになんでそうなるの?」みたいな下手くそな飛び方するじゃないですか。

ここでいう「蛾のように飛ぶ蛾」というトートロジカルな言い回しは、そういう蛾にむかって「なんだよおまえ、まるでマジの『蛾』みたいじゃん!?」というのと同じようなことで、つまり皮肉です。

これが「いかにも人間らしく生きてる(のだけどなぜかぎこちない)人間になっちゃった僕たち」の姿と重ねあわされるから、結句の「社会が苦手」に着地するわけで、それじたいはわりと素直な発想だと感じます。

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二首目。

かみなりのように壊れたブランコがあったはずあの空き地にむかし

たぶん「壊れたブランコ」の壊れ方(そのようす)が「かみなり」みたいだったという歌ではないです。「かみなりのように」は「壊れた」ではなくて「あったはず」にかかっています。これは明らかにそう読むのが自然なはず。

「かみなりのように-壊れた」だとするとかなり奇抜な喩えですが、「かみなりのように-あったはず」なら直喩としてかえって自然でとても上手いことがわかります。「かみなり」みたいな存在感をもってたしかにあったはずなのだけど、いま見たら「かみなり」みたいに跡形もなくなっているみたいな話でしょう。

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三首目。

ゆめをみるように突然ドアノブの大切さにきみは気づいてる

「ゆめをみるように-突然(気づいてる)」ということを言いたいように見えます。「ドアノブの大切さ」ということに対する気づきの根拠や前触れのなさを伝えたい表現でしょう。

神さまが夢枕に立つタイプの天啓みたいなことでしょうか。それでなんで「ドアノブの大切さ」なんていうしょうもないことに気づいちゃうのかみたいなギャップが魅力なのかもしれません。


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