#2 短歌・意図・私性――コンピュータは短歌〈する〉か?

この記事について

短歌における「私性」に関連して考察した文章の一部を公開するものです。文章全体としては書きかけで未完成です。近い関心の記事を別に書いたので、この文章は途中で放置されたままになっています。

この文章では大筋のモチベーションとして、短歌を言語表現の一形態と捉える場合、その背後にはその表現を帰属するべき主体としての〈私性〉が(少なくとも慣習上は)存在しなければならないことを論じます。本文の流れとして、はじめに、短歌評論の文脈で用いられる「私性」という用語が引き連れてくる主な論点を整理します。続けて、Ruth Millikanの論(を援用する戸田山の論)を参考にしながら、志向的な表象概念の要件を検討します。具体的には、言語表現の妥当な意味を決定する理論立てをおこなうためには、A. 志向的記号が何ごとかを〈意味する〉はたらきが、私たちが直観しうる意図とはそもそも無関係になされることの説明づけ(表象のはたらきの自然化) と、B. 志向的記号が〈意味する〉べき妥当な内容は、コミュニケーションの目的に即して、記号の生産者と消費者(解釈者)の両者によって協調的に構成されなければならないとする説明づけ が必要であることを指摘します。この二点をカバーしうる理論立てとして、いわゆる「仮説的意図主義(hypothetical intentionalism)」と戸田山の論を念頭におきつつ、「コミュニケーションがその目的に適うような意図の構成をおこなうプロセスであること」を明らかにし、またそうであるがゆえに、慣習上コミュニケーションの主体たりうると認められない者とのあいだにあってはそもそも表現の意味は問えなくなることを論じます。

以下、本文のコピペです(脚注は省略しています)。

私性(随筆性)

短歌評論の文脈における「私性」とは、作品の背後にあると考えられる語り手の個性と実際にその作品をつくった作者との関係について述べるときに用いられる用語です。「わたくしせい」と読まれることが多いように思われます。なお、私性(しせい)という用語は、公共哲学において公共性に対するものとしての私秘性の訳語として用いられることがありますが、おそらくこれとは直接の関係はありません。

以下のツイートは「私性」をネタにしたジョークの例です。

これは岡井隆『現代短歌入門』における有名な記述を下敷きにしています。岡井のこの記述とそれを整理した大辻隆弘による「私性」の解説については、以下の記事が扱っています。

安田短歌と〈私性〉―恋人を喪った安田龍彦とは誰なのか|.原井|note

大雑把に理解するなら、テキストの語り手としての〈私〉と、テキストに表れる自己像としての〈自分〉、そしてそれらの帰属先と考えられる〈わたし〉の重ね合わせを「私性」と呼んでいるのだと思っておくとよいかもしれません。ポイントとしては、この記事がその重ね合わせのしかたを「随筆性」と呼んでいるように、作品の背後にある〈わたし〉を現実世界に実在する具体的な誰かと見なすかどうかがしばしば議論の種になります。

短歌を読むということは、このみっつの階層の「私」を様々な形で(それは作品の特性や読者の〝癖〟によって異なる)読むことなのだと、大辻󠄀は主張する。それが岡井のいう〈私性〉の意味なのだと。
多くの短歌において、この指摘は正しいだろう。ただし、注意しておかなければならないことがふたつある。
(中略)
もうひとつは、現代において、〈私性〉という用語が必ずしも岡井や大辻󠄀の言ったような意味では理解されていないということだ。先に挙げたみっつの「私」をすべて同一の存在として短歌を読む(大辻󠄀の記述を借りれば「私①=私②=私③」)という枠組み、あるいはそう読まれることを想定して作歌するという態度(岡井も注意を喚起しているように、それは短歌を読む枠組みのうちのひとつでしかないのだが)のことが〈私性〉と呼ばれることも、実際には多い。これは簡単に言えば、短歌で表現されていることは作者が実際に体験したこと、あるいは思ったことだと捉える読み方のことだ。
(引用:先の記事から)

私自身はここで要約されているような「様々な形で読む」という大辻の主張内容がよく読み取れないのですが、ここでまとめられているように「短歌で表現されていることは作者が実際に体験したこと、あるいは思ったことだと捉える」べきなのか、仮にそうするとしてその読み方はどのような理由からどの程度まで徹底されるべきかというのはよく議論される点です。

物語的自己

もめるポイントの二つめとして、テキストに表れる自己像としての〈自分〉というのは、そもそもそれらの帰属先と考えられるあるがままの〈わたし〉とイコールではないだろうという話もあります。これは「自分」を表現するということに関する文学や哲学などの議論で扱われる問題です。

私たちが一般に「自分」(このような文脈にかぎっては「個人」と読み替えても差し支えないと思います)というものをどのような概念と見なしつつ扱っているかを研究する領域として、自己論というフィールドがあります。ある種の自己論的な理解では、私たちが想像する自分自身に対するイメージとしての「自分」というのは、実体としては自分自身に関する語りの集合として捉えられるものだとされています。このような語りの集合のことは個人史(biography)と呼ばれ、個人史によって特徴づけられる自分自身に対するイメージのことは物語的自己(narrative self)と呼ばれます。

ところで、個人が実際にその人の暮らしのなかで経験することというのは、語りとして言語化されることばかりではありません。むしろ言語化される経験というのは個人の人生のなかのほんの一部分であり、多くの経験は言語化される機会がないままに、いわば暮らしとしてただ経験されるだけのものです。そのような語られない部分を含む「自分」のことはしばしば「経験する自己(experiencing self)」などと呼ばれ、そうした経験の総体のことは「生きられた経験(lived experience)」などと呼ばれます。しかし、このように一言で言及してしまえるものの、現実世界において生きられた経験というのはいわば無限に細やかなディテールをもつものであり、言語化することによっては到底語り尽くせるものではありません。また、私たちはときに既存の語彙の使用によってはずばりと言い表せないようなものごとや感情を経験することがあり、まさにそのような経験を言語化するために目新しい詩的な表現を用いたりすることもあります。しかし、そのような目新しい表現は必ずしもその人の狙いどおりに解釈されるものではないかもしれません。

このように、言語化された〈自分〉というのは、生きられた経験を言語化する過程と、そうして言語化された経験が他者に解釈される過程において、あるがままの〈わたし〉そのものから二重に疎外されています。あるがままの〈わたし〉のように本質的にうまく言語化できないものについては、ウィトゲンシュタインによる有名な一節を念頭において「語りえない」だとか「語りえず、示される」といった言い方をすることがありますが、では何をどのように語れば結果として正しく理解されるのか(語りえないながらも示したことになるのか)というのは、個々の実践のなかで手探りしていくしかない部分なのでしょう。

べき論としての「私性」観

短歌の読み方について議論する場では「短歌で表現されていることは作者が実際に体験したこと、あるいは思ったことだと捉える」という前提を窮屈に感じる人々によって、短歌に「私性」は必要ないのではないかという疑問が提示されることがよくあります。この疑問が意味するところはそれぞれの「私性」の理解の違いによって混線するものでしょうが、以下では、この議論を踏み込んで考えてみることにします。

まず、単純に「短歌で表現されていることは作者が実際に体験したこと、あるいは思ったことだと捉える」べきかという話であれば、それは場合によるとしか言えないと思います。少なくとも、短歌で表現されていることが作者が実際に体験したことや思ったことであるのを前提としている場が存在している以上、その前提を野放図に壊してしまうことには弊害もあり、必ずしも推奨されるべきこととはかぎりません。おそらくですが、短歌が媒介する言説空間にはしばしばナラティヴ・コミュニティとしての側面があり、自分自身の本心(信念)からくることばを短歌にするというそのことが一定の意味をもっているケースがたしかにあります。たとえば、「介護短歌」などを投稿する場にまったく架空の介護経験を詠んで投稿するというのは直観的にかなり抵抗がありますし、自分自身はそうした問題にまったく関心がないにもかかわらず、思想性のある政治詠や社会詠を詠むというのはおかしな話です。だから、こうしたべき論はその場の目的に応じて、たまたま短歌というメディアに乗った言説だからというのとは切り離して考えなければならないことだと思います。

記号と表象

次に、「短歌で表現されていることは作者が実際に体験したこと、あるいは思ったことだと捉える」ことの必要性という以上に、そもそも短歌の背後にその表現を帰属するべき主体としての〈私性〉が必要なのかという疑問を検討します。この疑問について私自身はかなり懐疑的なのですが、短歌の背後にはやはり主体としての〈私性〉が必要だろうということを述べるにはなかなか込み入った議論が必要です。

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内輪でひっそり。買いきりです

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