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夕焼けチャイムでまた明日

下校中、真っ直ぐ家まで帰れた試しはない。

いわば通学路には何かしらのイベントを発生させる目に見えない装置が溢れ返っており、それこそ隙があればとにかく遊ぶ、という発想だった。

友達と荷物持ちじゃんけんをしてみたり、意味もなく野良猫を追いかけて引っ掻かれたり、知らない家の軒先にある珍しい観葉植物を千切って怒られてみたり。

学校の近くに、不思議な玩具を売るおじさんがいつもいて、それはガラス細工のような立方体なのだが、中を覗くと目の前の景色が歪んで不思議な光景が広がるのである。

値段は確か六百円くらいで子供には高い。欲しいけど学校帰りはお金を持ってない。一度家にダッシュで帰って戻ってくる頃にはおじさんはいつもいなくなっていた。

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あと、小さな柴犬がいつも、線路下の駐車場に繋がれていた。

みんなからチビという名前で呼ばれていたが、本当にチビだったのかは分からない。団地に住んでいる子ども達にとって、犬を飼うというのは一つの憧れだった。

下校中の、見ず知らずの子ども達にも触らせてくれるような気立てのいいワンコは大体人気者で、皆その名前を当たり前のように知っていた。しかしチビの飼い主は誰なのか、誰もしらなかった。

夏でも冬でも雨でも雪でもチビはいつも駐車場にいて、まともに餌を貰えているのか誰も知らなかった。よく、飼い主ではないどこかのオジサンが焼き鳥の残りとか、そういうのをあげているのを見たことがある。おそらくチビはそういう餌で生き延びていたのだと思う。

2メートルくらいの紐で廃車に繋がれ、散歩にも行かず、いつくるとも知れない誰かを待ち続ける。今でも僕はあの時のチビの毎日を想像すると、鼻の奥がツンとして、それから少しざらざらした気持ちになる。

犬は一つの場所にずっと繋いでおくもの、という感覚が理解できない。経験上、犬達は大体において、寂しがり屋だし、臆病である。できるのであれば、人間と同じ家の中で暮らすのがいいと思っている。

愛犬を人間のように扱う人は多いが、物心つかない子犬の頃から人間に育てられた犬は、飼い主を犬だと思い込むらしい。だとすれば、何故自分だけが仲間外れにされて家の外に繋がれてしまうのか、犬の気持ちを思うと、僕は気が気ではない。

ある時、チビのお腹が急にふくれだした。
九十年代前半の東京。かろうじて生き延びていた野良犬との間にできたのだと友達はいうが、まず僕はチビが子犬だと思っていたのに妊娠したことに驚いた。

豆芝という犬種がいるというのはあまりメジャーではなかったのである。

それからチビは思い出の定位置から煙のように消えている。 行方を知っている人は当然いなかった。

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夕焼けチャイムはナレーションつきだった。赤とんぼのメロディと一緒に女の人の声が町全体に響き渡る。

五時になりました

お家へ帰る時間です

よいこのみなさん

気をつけて帰りましょう

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