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読書感想 - 「平気でうそをつく人たち:虚偽と邪悪の心理学」 M・スコット・ペック

感想

悪とは、邪悪とは何か?

著者のペックはそれを精神医学的見地から解き明かそうとします。その行為自体が悪となる危険性を自覚しながら慎重に。

自分自身にたいして完全に正直であれば 、自分の罪に気づくはずである 。その罪に気づかないならば 、自分自身にたいして完全に正直ではないということになり 、それ自体が罪である 。

この罪の考察から、ペックは邪悪をこう定義する。

邪悪な人たちの特性となっているのは、本質的には、そうした人たちの罪悪そのものではない。彼らの罪悪の名状しがたさ、その持続性、そしてその一貫性である。これは、邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにあるからである。
(中略)
邪悪な人間は、自分には欠点がないと深く信じこんでいるために、世の中の人と衝突したときには、きまって、世の中の人たちが間違っているためそうした衝突が起こるのだと考える。自分の悪を否定しなければならないのであるから、他人を悪と見なさざるをえないのである。自分の悪を世の中に投影するのである。
(中略)
自己嫌悪の欠如、自分自身にたいする不快感の欠如が、私が邪悪と呼んでいるもの、すなわち他人をスケープゴートにする行動の根源にある中核的罪であると考えられる

自分の罪悪を引き受けない。そのため、他者と衝突した場合は他者が悪と決めつける(スケープゴートにする)。

この定義が深いのは「なるほど、確かにそういう人いるよね」と思うその時に、まさに自身が「そういう人」をスケープゴートにして自分の罪悪を引き受けない選択をしている可能性があるという循環構造になっていることです。常に自分の言動に確信を持たないこと、ためらいを持つことが邪悪に陥らないために必要な基本的な態度であるということです。

われわれが邪悪な人たちを殺すならば、われわれ自身もまた邪悪な人間となる。

誰かを邪悪と断罪した瞬間、自身も邪悪になってしまう。そういう構造になっている不安定さ。この不安定さに耐えることこそが大切だとペックは言います。

そして、ペックはまた、人間の集団の邪悪についても記述しています。集団もまた、自身の罪悪を受け入れないことで邪悪な集団となると。

邪悪な個人は、自分の欠陥に光を当てるすべての物あるいはすべての人間を非難し、抹殺しようとすることによって内省や罪の意識を逃れようとする。同様に集団の場合にも、当然、これと同じ悪性のナルシシズムに支配された行動が生じる。
こう考えると、物ごとに失敗した集団が最も邪悪な行動に走りやすい集団だということが明らかとなる。
(中略)
邪悪な人間がなんらかのかたちで攻撃的になるのは、自分が失敗したときである。これは集団にもあてはまることである。そのため、国を問わず時代を問わず、集団の指導者は、その集団が失敗したときには、外国人つまり「敵」にたいする憎しみをあおることによって集団の凝集性を高めようとするのがつねである。

昨今の日本でもよく見られるようになった風景(外国人つまり「敵」にたいする憎しみをあおることによって集団の凝集性を高めようとする)が記述されています。それは、ナチス、日本帝国軍、ベトナム戦争時のアメリカ軍など、戦争犯罪を犯した集団にも共通していた風景です。

自己の罪悪を否定した人間や組織は、この上なく残虐になります。自己の罪悪を否定することは、罪悪を他者に押し付ける(投影する)ことにつながり、悪である他者への共感を失うからです。

自分自身や自国の負の側面に目を向けることから逃げて、自信や誇りを持つような言説が活発な昨今ですが、その態度は、過去から学んだ回避できる悲劇への道を、いつか来た道をまた辿る結果になりはしないか、とても心配です。

人間は自信がないぐらいがちょうどいいとこの本を読んで再確認しました。

その他、心にとまったセンテンス

完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、道徳的清廉性という外見を維持しようと絶えず努める。彼らが心をわずらわせることはまさにこれである。

彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。

虚偽とは、実際には、他人をあざむくよりも自分自身をあざむくことである。彼らは、自己批判や自責の念といったものに耐えることができないし、また、耐えようともしない。彼らは慎み深さをもって暮らしているが、その慎み深さは、自分自身を正しい者として映すための鏡として維持されているものである。

われわれが邪悪になるのは、自分自身にたいして隠しごとをすることによってである。

邪悪性とは罪の意識の欠如から生じるものではなく、罪の意識から逃れようとする気持ちから生じるものである。

彼らに耐えることのできない特殊な苦痛はただひとつ、自分自身の良心の苦痛、自分自身の罪の深さや不完全性を認識することの苦痛である。

邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志を持った男であり女である。

フロムは、人間の悪の根源を進行的プロセスであると見ている。つまり、われわれは邪悪につくられているわけではなく、また、邪悪になることを強制されているわけでもない。ただ、長期間にわたる長い選択の連続を通じて、徐々に邪悪になるというのである。

私は、精神科医を訪れる人と訪れない人とのあいだにまったく何の違いもないと言おうとしているわけではない。ただ、その違いは微妙なものであり、しかもその違いは、しばしば「正常」な人たちの正常性を疑いたくなるようなものなのである。

世の中には愛情を持っていない親というものはざらにいるもので、そうした親たちの大半が、すくなくともある程度までは、愛の見せかけを行っているということは、経験を積んだ心理療法家であればだれでも知っていることである。

邪悪な人たちがひどく苦しんでいるように「見受けられない」のは事実である。自分自身の弱さや欠陥を認めることのできない彼らは、外見を装わなければならないからである。彼らは、自分が絶えず物事を支配しているかのように、自分自身にたいして装わなければならない。彼らのナルシシズムがそれを要求するのである。

邪悪なものがあるときには、きまってそこにはうそがある

邪悪な人たちのナルシシズムは、彼らが自分のナルシシズムにささげるためのいけにえを必要としているという事実に加えて、自分のいけにえになる相手の人間性をも無視させるものとなる。

恐怖症というのは「置き換え」によって生じるものである。心理療法家はこう説明した。あるものにたいする正常な恐怖感や反感がほかの何かに置き換えられたときに、恐怖症が生じる。本当の恐怖や反感を自分で認めたくないときに、人はこうした防衛的な置き換えを行う。

人生のあらゆる面において失敗とはきわめて教育的なものである。おそらく、われわれは成功よりも失敗から多くを学んでいるはずである。

いいことは二つ同時にできない、つまり、子供として愛されながら、親を性的に所有することはできないということを悟るようになる。

精神医学においてエディプス・コンプレックスが重要視される理由のひとつとして、これを解消できないまま大人になった人間は、通常、大人としてうまく適応していくうえで必要とされる欲望の自制や放棄がむずかしくなる、ということがあげられる。いいことを二つ同時にできない、ということを学んでいないからである。

彼女は治癒を望んでいた。しかし、その過程で何ものをも失うつもりはなかったし、何ものをも手放すつもりはなかったのである。これは、彼女が私にたいしてこう言っているようなものである。「私を治してちょうだい、だけど私を変えないでちょうだい」。

集団のなかの個人の役割が専門化しているときには、つねに、個人の道徳的責任が集団の他の部分に転嫁される可能性があり、また、転嫁されがちである。

残虐行為全体にたいして目をつぶることなしに、ある特定の残虐行為だけを選んで目をつぶることはきわめてむずかしい、ということである。自分自身が残忍な人間になることなしに、残虐行為にたいして無感覚になることはできないのである。

人間の偉大さを計る尺度のひとつが──そしておそらくは最良の尺度と思われるのが──苦しみに耐える能力である

現実に広く見られる集団ナルシシズムのかたちが、「敵をつくる」こと、すなわち「外集団」にたいして憎しみをいだくことである。これは、初めて集団を組むことを学んだ子供たちにも自然に発生するものである。

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