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美の来歴㊷ 宮廷家族図が映すスペインの黄昏  柴崎信三

フランシス・ゴヤ『カルロス4世家族図』の魑魅魍魎

 そのころ、54歳のフランシス・ゴヤは宮廷首席画家という地位にあった。高給と自家用馬車があてがわれ、国王一族らの肖像画や教会の装飾画などを一手に引き受けたが、10年ほど前にアンダルシアのカディスでかかった疫病が原因で聴覚を失っていた。
 国王カルロス4世や王妃のマリア・ルイーザとマドリードの宮殿や夏の避暑先であるアランフェスの「農夫の館」で会う時も、侍従を介した手話や筆談に頼らざるを得ない。もちろん音を失った生活は画家の日常に大きな影をもたらしたが、やがてそれは偽りのない人間の裸形を醒めた眼差しで見つめる大きなきっかけとなった。 

〈もしゴヤがそちら(マドリード)で私たちの肖像画(家族図)を立派に、実物通りに描けるのならそれに越したことはありません。そうすれば、こちらもうんざりさせられずにすむからです。しかし、うまく行かないのなら、こちらに来るように言ってください。私たちの方が犠牲になりましょう〉(4月22日付)

 ゴヤが『カルロス4世家族図』を描くにあたって、王妃のマリア・ルイーザは近衛士官上がりの若い愛人で首相に取り立てたマヌエル・コドイにあてて、こんな伝法な手紙を書いている。1800年4月、国王夫妻の戴冠10周年を記念してゴヤに注文した「家族図」の下絵の進み具合を伝える文面は、なんとも居丈高である。今日スペインの歴史の暗転を表徴する名画として知られるこの作品が、「色情狂」とも噂された当時48歳の王妃の発案ですすめられたことを、それとなくのぞかせている手紙である。
 縦2・8メートル、横3・36メートルという巨大な画面である。
 王宮の広間に、国王夫妻とその一族13人がきらびやかな盛装を勲章と宝玉で飾って立ち並び、記念写真のように観者へ視線を向けている。しかし、しつらえの華やかさに反して登場者たちの表情は、どこかぎこちなくこわばって奇妙な静寂に包まれている。

◆フランシス・ゴヤ『カルロス4世の家族』=部分
(1800年、カンバス・油彩、マドリード・プラド美術館蔵)


 なんといっても際立つのは、中央で6歳の息子、ドン・フランチェスコ・デ・パウラの手を引いて、首をそり返すようにしてこちらを見つめる王妃マリア・ルイーザである。その強欲な性質と放埓な振る舞いは宮廷の内外にあまねく伝わっていた。むき出しの権柄を押し出した顔と中年太りの容姿に、かつてのパルマ公国の皇女の面影はない。それでもデコルテの肩から伸ばした二の腕の美しさでは誰にもひけを取らない、と本人は密かな自負を持っている。あたかもその白い左腕が画面の主役のように浮き立って描かれているのは、宮廷首席画家たるゴヤが取り持った気配りの賜物であったのかもしれない。
 「悪女」で名高い王妃の紹介を急いで、肝心の国王カルロス4世の登場が遅れた。画面では胸に夥しい勲章をつけて一歩前へ踏み出しているカルロスは52歳である。

「毎朝、天候がどうあろうが、冬でも夏でも、私は朝食を食べてからベッドを出て、ミサを聞き、それから午後一時まで狩猟に行きます。昼食後、もういっぺん猟場に戻って日の暮れまで鉄砲打ちです。夜になると、マヌエル(ゴドイ)がやってきて、政務がうまく行っているかどうかを告げてくれます。それから床に入って、朝になれば、また狩りに行きます。何か重要な儀典でもあって王宮にとどまっていなければならぬ日は別ですが‥‥」

 この「家族図」が描かれてから8年後、フランス皇帝となって欧州各地に覇権を広げていたナポレオン・ボナパルトがスペインを版図に収めようとして国王のカルロス夫妻をバイヨンヌに呼び出した折、「統治の秘訣」を問いただされた国王はこう答えている。
 フランス革命で王朝が転覆した名家ブルボンにつらなる「スペイン・ブルボン王家」の血筋にあたるが、その日常はひたすら狩猟に熱中して政務は妻の愛人である首相のゴドイに任せきりという、呑気で無気力な性質をそのままにした日々を送っていた。

◆マドリード 王宮の風景

 かつては隆盛するハプスブルク家と海外各地に広がる巨大な領土を背景に「日没なき帝国」と呼ばれたスペインの栄光は、すでにすっかり翳っている。ピレネーの山並みの向こうのフランスではナポレオン・ボナパルトがブリュメール18日のクーデターで権力の座に就き、アルプスを越えてイタリア遠征を果たして版図を広げつつある。フランス革命のうねりが社会の秩序を揺るがし、欧州は大きな変革の波に洗われていた。
 ところが、このブルボン家の流れを汲む52歳のスペイン王にとって、王権
とは依然として神から授けられたものであり、海外の領土も含めて一切のスペインの版図と財産は専制君主である国王個人の持ち物でしかない。民衆に広がる貧窮とスペインという国家の衰弱も、隣国に広がった革命と新たな覇権の脅威も、ナポレオンが「善良で信心深く、かつ愚鈍」と評したというこの国王にはほとんど遠い雷鳴ほどにも届いていない。

◆フランシス・ゴヤ『カルロス4世像』
(1789年、油彩・カンバス マドリード・プラド美術館蔵)

 恰幅のいい押し出しで、宮廷では貴族や臣下たちに軽口をたたき、政務の差配はもっぱらゴドイに任せて自身は朝から狩猟三昧。そして、夜は情欲の虜のような妻のルイーザの相手を務めるため、粛々と閨房に勤しんだ。宮廷で外交や戦争の指揮にかかわるより、時間があれば部屋にこもって時計の修理や指物細工、鉄砲の手入れなどをするのを好んだという国王のカルロス4世と、若い近衛士官の愛人を首相にして公然と振る舞う妻のルイーザとの関係がどのようなものであったかは、おのずから想像ができる。
ゴヤはそれを「カルロス4世家族図」のなかではっきりと描いている。
 王妃ルイーザに手を引かれた8歳のパウラの隣で、カルロス4世は礼装の胸に付けた満艦飾の勲章の上に、肩から白と青のサッシュをかけて威儀を正している。
 実はルイーザの両脇に立つ6歳の親王ドン・フランシスコ・デ・パウラと11歳の皇女ドーニャ・マリア・イサベルという二人はカルロス4世との間の子供ではなく、ルイーザの愛人の宰相、マヌエル・ゴドイとの間の子供といわれる。このことは宮殿の内外では公然の秘密であった。
 画面では8歳のパウラを挟んだ国王とルイーザのあいだに、もう一人の人物が立っているべき空間がある。幼子をはさんで、国王夫妻の背後の巨大な絵画のあいだにあるこの空白は絵画の均衡を大きく打ち破っており、あたかも「青年宰相ドン・マヌエル・ゴドイ」がこの位置に隠れていることを、画家が暗示しているかのようである。
 群像の背後の壁にかけられた、絵柄のはっきりしない大きな絵画はながらく謎とされてきた。それが近年に至って、旧約聖書の〈ロトの物語〉を描いたものと解明された。罪悪で滅びるソドムの街を捨てて、娘二人とそこから逃れてゆくロトの物語だというのである。ゴヤがこの主題を背景画に込めた意図をたどれば、国王の戴冠記念というこの絵の建前を超えて、画家が『カルロス4世家族図』に託した寓意はひときわ深まるに違いない。
 国王カルロス4世と皇妃マリア・ルイーサ、そしてその愛人で近衛士官から宰相の地位にまでのぼったマヌエル・ゴドイ。この奇妙な〈三角関係〉を、ルイーサは「この世の不聖なる三位一体」と呼んではばからなかった。もちろん、みずからの身持の悪さをキリスト教の「父と子と精霊」の三位一体にからめて呼んだ、まことに不埒な喩である。
 皇妃ルイーザは若い近衛士官のゴドイへの情熱と引き換えに宰相の権力を与え、国王カルロスはこの妻の情人に政治を託すことで、煩わしい国事から逃れることができた。
 「淫売と淫売屋の亭主とヒモ」
 いつの時代も民衆の陰口はことの本質をとらえて辛辣であり、そして正確である。
 出来上がった「家族図」を前にして、昼下がりの宮廷の回廊から今は声を失ったゴヤとモデルの〈主役〉のルイーザが交わした、こんな秘められた会話が聞こえてくる‥‥。

「画伯、みごとな出来栄えだこと。少なくとも私のデコルテの華やかさでは決してほかのモデルの比ではありますまい。それに、この家族図は私の左右にパウラとイサベルがいることが重要なのです。その意味は宮廷首席画家のあなたはよくご存じのはず」
「もちろんでございます、陛下。本当のことを申せば、この国王陛下との間の空間に宰相閣下がお立ちいただければ、この家族図は完璧な仕上がりになるべきところでした、それが心残りではありますが」
「ほほほ。まあ、それは冗談としておきましょう。いずれにせよ、あなたは画家としてこの傾き行くスペイン・ブルボン家とカルロス4世一家の〈不聖なる三位一体〉に立ち会ったのです。その証拠に、ご自身の姿を画面の左端の暗がりに描き込んでいるではありませんか」
「御意にございます。私は確かにその場面に立ち会い、それを描いたのです」

◆フランシス・ゴヤ『自画像』(1815年、油彩・板、
マドリード・王立サン・フェルナンド美術アカデミー蔵)

 

 画面の舞台の登場人物を、少しく補足しておかなければならない。
 左手前に一歩踏み出して、やはり青と白のサッシュを肩から下げた若い男がいる。
 16歳の皇太子フェルナンド、アストリア公である。
 カルロス4世の「不聖なる三位一体」の体制の下、フランスとナポレオンの足音が日増しに高まる斜陽の国スペインにあって、1807年に起きた仏軍の侵入と翌年の反ナポレオン蜂起の結果、宰相ゴドイが逮捕、父親のカルロス4世が退位した。そのあとを「嘱望の国王」として迎えられるはずのフェルナンドではあったが、ナポレオンの謀略にはまって国王の座を明け渡し、フランスへ幽閉されるという醜態を演じることになる。
 16歳の皇太子は画面では白面の貴公子の佇まいで、上半身に強い光を浴びたその姿が床に大きな長い影を落としている。あるいはゴヤは「家族図」のなかの〈希望〉の暗喩として、この皇太子に光を当てて画面の左端においたのであろうか。
 絵の中のフェルナンドには、こうした歴史の亀裂のなかに自らが投げ込まれてゆくその後の波乱を知る由もない。しかし、16歳の白面の貴公子がそれからたどる流転もまた、カルロス4世と妻のルイーザ、そしてその愛人で宰相のマヌエル・ゴドイという「不聖なる三位一体」の暗闘が生んだ一家の陰画であったのかも知れない。
 皇太子フェルナンドは「恐ろしく退屈な男」と呼ばれた。
 毎日狩猟三昧の国王カルロス4世を父、色情狂で若い宰相ゴドイの情人である王妃マリア・ルイーザが母である。その母は若い愛人のゴドイを偶像と崇めて、フェルナンドにすべてを従わせようと干渉し続けたから、彼はますます反発して屈折した。

〈カルロスと私の二人でフェルナンドと話をし、あなたを常に愛し尊重するよう、申し付けました。ところがまあ、彼が父親および私の感情をまったく共有しようしないのを見るのはつらいことです〉

 これはゴヤによる「家族図」が描かれた1800年の10月4日付けで、ルイーザから愛人のゴドイにあてて送られた手紙の一節である。
 若い愛人の宰相ゴドイにぞっこんの母親が、フェルディナンドの読む本や行動までをもこの〈偶像〉の言いなりにしようと指図すれば、反発するのは当然であろう。フランスの侵攻で国王とともに祖国を追われたフェルナンドがようやく「嘱望の王」としてスペインに帰還するのは、ゴヤが「家族図」を描いてから14年後の1814年である。
 「不聖なる三位一体」の立役者とも呼ぶべきマヌエル・ゴドイの姿は、もちろんゴヤの「家族図」にはない。とはいえは首相と元帥を兼ねて国事の中心を担うゴドイは、毎日のように宮殿を訪れて外交や内政について国王に報告する。うわの空で聞きながら、明日の狩猟の天気を気にしているカルロスの傍で、ルイーザが嫉妬深い眼差しを送ってよこす。いまや侯爵の爵位までうけた宰相ゴドイにとって、もはや天下は自分の掌中にあるに等しい。ゴヤは「家族図」でカルロス4世夫妻のあいだの空間に、この成り上がりの若い政治家を描き込むことは控えたが、翌年の『マヌエル・ゴドイ像』はポルトガルとのオレンジ戦争に勝利した記念に、ゴドイから注文を受けた肖像画である。

◆フランシス・ゴヤ『マヌエル・ゴドイの肖像』(1801年、油彩・カンバス
マドリード・王立サン・フェルナンド美術アカデミー蔵)


 馬に囲まれて椅子にゆったりと座り、右手に文書、両足のあいだに杖を挟んで視線を遠くに投げる姿は、この男の内に湧き上がる達成感をとらえて、その野心と狡知を浮き彫りにする。ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが断頭台に送られたフランスでは、国民議会が1793年にスペインに対し宣戦を布告した。ゴドイは「神と王と祖国」の名のもとの戦いの矢面に立って、陰り行くスペインの希望をかろうじてつないだ。
 「不聖なる三位一体」の中心にあって、王妃ルイーザはカルロス4世公認の青年宰相ゴドイの歓心を得ることで権勢を広げてきた。しかし、もちろんこれは全く完璧な力の均衡をもった三角形ではなく、王妃の虚栄や嫉妬でたやすく崩れる脆さを持った。

 トライアングルの外側の宮廷首席画家に過ぎないゴヤは1797年、社交界の花として美貌で名高いアルバ公爵夫人の肖像を描いた。華やかで知性あふれる名門アルバ公爵家の13代当主で、王妃ルイーザが激しい対抗意識を燃やす女性だが、人を引き付ける会話や身に着けた趣味の良いファッションまで、すべての面で王妃に勝ち目はない。

◆フランシス・ゴヤ『アルバ公爵夫人』(1797年、カンバス・油彩
ニューヨーク・ヒスパニックソサエティー蔵)

 金色の上衣に黒のレースの服を着た下町の伊達女姿を描く『アルバ公爵夫人』のなかで、ゴヤは地面を指さすモデルの指輪に〈Alba Goya〉という文字を刻み、その指さした先の砂地には〈Goya Solo〉 ―ゴヤひとり、と描き込んだ。
 画家が激しい情熱を燃やした公爵夫人に対して、王妃ルイーザが嫉妬と憎悪を募らせていくのは、アルバ公爵夫人がそのころナポレオンとかかわってある政治的な陰謀に加担していたのがきっかけといわれる。ゴドイを通じてアルバ公爵夫人に対し、マドリードからの強制退去命令を下すという非常手段に出たルイーザは、ゴヤが『家族図』を描いたのとほとんど同じ1800年の4月に、ゴドイにあててこんな手紙を送っている。

〈女アルバが今日の午後、別れを告げに来た。まるで骨と皮になってしまっていた。むかしあんたととのあいだにあったようなことは、いまとなってはもう起こらないって思いますよ。あんたもきっと後悔していることでしょうがね〉

 ゴヤばかりか、ルイーザの情人の首相ゴドイまでを手玉に取る美貌のアルバ公爵夫人が売国的な政治の陰謀にかかわっている―。それを知ったルイーザがゴドイにあてた、何とも蓮っ葉な手紙である。「彼女や、あの一党は深淵の底へ埋めてやらなければなりません」とまで書く王妃ルイーザの憎悪の深さを裏付けるように、アルバ公爵夫人は2年後の1802年7月、突然死んだ。毒殺、という説が今日でも有力である。
 この国の斜陽はそれ以降、覆うべくもない。
 スペインとフランスは妥協の同盟関係を結ぶが、やがてナポレオンの大陸封鎖令のもとでスペイン艦隊が滅んで、1808年にカルロス4世は譲位、ゴドイも逮捕された。
 カルロス4世と王妃ルイーザ、そしてその愛人の成り上がり宰相マヌエル・ゴドイによって結ばれた「不聖なる三位一体」の時代は、かくして幕を下した。
 カルロス4世と王妃ルイーサは1819年に死去、失脚したゴドイは祖国を追われて亡命先のフランスで晩年を生き延びた。
 宮廷画家のゴヤは「不聖なる三位一体」が崩壊してゆく渦中で、深い思いを寄せたアルバ公爵夫人を失い、祖国スペインの黄昏を眺めながら長い失意の晩年を生き続けた。
 『家族図』の左端に描いた白面の皇太子フェルナンドは1814年、追放されたフランスからようやく帰還した。「嘱望の王」として迎えられると、それまでフランスに協力的だった人物を次々に「祖国への裏切り者」として追放する。しかし、ゴヤに対しては「お前も縛り首にすべきだが、偉大な芸術家であるからすべては忘れよう」と、改めて宮廷画家に指名した。
 ゴヤはかつて「家族図」に描いた16歳の皇太子フェルナンド、いまは亡命先のフランスからようやく戻った「嘱望の国王」の肖像画を、求められるままに淡々と描いた。                                                              =この項終わり

◆標題図版 フランシス・ゴヤ『カルロス4世家族図』(1800年、油彩・カンバス マドリード・プラド美術館蔵)


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