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殴り書き(京王線車内で発生した傷害放火事件の犯人に関する殴り語り)

今回の文章については、プロファイリングも検証も不十分なままの殴り書きである。
数日が過ぎたら、恥ずかしくて消してしまうかも知れない。
ある種の独善性とも暴力性ともつかない何某かが含まれている、思い込みによる勘違いが混ざっている、支離滅裂な殴り書きだと思う。

その旨を分かった上で、読んで頂けたらと思う。

あのハロウィンの夜に京王線の車内で起きた、あの傷害・放火事件の犯人について、久しぶり嫌悪感が満載になった。
この嫌悪感は、巷で言われている嫌悪感とは全く違う。
私の個人的な心情からくる嫌悪感である。

ふざけるなよ。
こちらの領域に入ってくるなよ。

という嫌悪感である。

京都アニメーションへの放火事件や、8月の小田急線車内での傷害事件の犯人に対して、私は些かのシンパシーを抱いている。
彼らの心根は、まだ、哀しき人であった。

犯人たちから漏れ出てくる心象風景と似たようなものを私は内包してきている。

私は生粋のサディストである。
そのサディズムは
「他者の魂魄を引き摺り出して喰らいたい。喰らっている様を、その魂魄の持ち主に見せつけたい」
「他者の心象風景の奥底を表層に引っ張りだして、細かく分解して並べたい」
といったものである。

この様なサディズムを心の奥底に抱いて生きて行くことの困難さを理解できる人はいくらくらいいるだろうか。

自分の中に、明らかに歪(いびつ)で、社会に対して害悪的で、多くの人間からは生理的に拒絶されるであろうと容易に予測できる衝動を抱えつつ、人間社会から迫害されないように、何とかバランスを取りつつ、息を潜めて、高い平均台の上を歩いている。

私は器用だったから、なんとか、平均台の上を歩いて来れたし、今では己の心象風景を語れるくらいには鈍くもなれた。
でも、多分、そうでない者の方が多い。
数多くの者が平均台から転げ落ちて、二度と這い上がれなくなる。

その上、そういう状態に陥る根本の部分について、私の場合は生来の性癖による先天的なものだったが、多くの者の場合は後天的な要因による、ある種の被害者的な側面を持つ、ある意味とても哀れな者たちなのだ。

地を這いずり回って生きる人間の視線にまで下り続けて接してくれる者が周囲に一人もいなくて、そこからくる疎外感、絶望感、死への憧れ、その境遇を受け入れることへ諦めと屈辱。
私たちはそういう世界で生きてきた者である。

私たちの語る言葉は、多くの人間には通じなかった。
だから、私たちは、我慢して、多くの人間たちが話す言葉を使い続けてきた。

例えば「悲しみ」という単語に宿る意味が異なっていても、それを説明しても通じないというもどかしさ。
そのもどかしさに疲れ果てて、諦めて、あちらの世界で使われている「悲しみ」の意味を受け入れて過ごさざるを得ない絶望感。

そういったものが常にある時間を過ごしてきた。

京都アニメーションの放火事件の犯人にも、8月の小田急線車内での傷害事件の犯人にも、そういう雰囲気があった。

彼らには大きな承認欲求があった。
その承認欲求は「誰かの視界の中に入りたい」「普通として扱って欲しい」という類のものである。

彼らの意識には希望はなくて、でも、一人で死に行くには寂しすぎる感じが横たわる。

こういう部分に対して、私は彼らにシンパシーを抱く。

そう、欲しいのは「当たり前の立場」なのだ。
「特別な何か」になりたいわけじゃないんだよ。

でも、ハロウィンの夜に京王線車内で「ヤンチャ」をしでかしたあの輩は、そうじゃない。
あいつは、そう、あいつは、ただ目立ちたかっただけ。
ヒーローになって、もてはやされたかっただけ。
だから、あえて(無意識か否かは知らないけれど)ハロウィン……お祭りの夜に犯罪を犯した。
それだけなんだよ。

きっと、
お祭りだから何しても許される
なんて事も無意識に思っていたんだろうな、なんてことまで邪推できてしまう。

奴は「上手く行かなくて」と言ったらしいが、その「上手く行かない」は「もてはやされる特別な存在になれない」「騒げない」なんだよ。

「普通になれない」じゃないんだよ。

何が「JOKERに憧れていて」だよ。
あの映画で、奴が憧れたのは、最後のシーン……群衆に囲まれて、アーサーがJOKERとして持ち上げられて行く風景。
でもな、アーサー自身は、あの時に、あの群衆は見えていないんだよ。
あの歓声なんて、どうでもいいんだよ。

アーサーはずっと認められたかった。
そして、ずっと、生真面目に努力を繰り返してきた。
その努力を続けるという糸が「ぷつん」と切れて、自分が壊れて行く、JOKERに変わって行く、その瞬間に周囲から認められて歓声を浴びる。
それは、アーサー(JOKER)が望んだ形ではない。
そういう皮肉な、悲劇な光景なんだよ。

とても、悲しい、やるせない、絶望感満載の風景なんだよ。

あの映画をちゃんと観ていたら、あの最後のシーンに悲しむことはあっても、絶望することはあっても、憧れることはないんだよ。
そういう映画なんだよ。

でも、奴は、そこに憧れたんだわ。
それは、単なるノワール嗜好なだけやん、

そして、奴には、自分から破滅するなんて衝動なんて更々ないんだよ。

事件の現場から、さっさと離れて、安全な所でのうのうと座っている。
まぁ、カッコつけとるのね。

ほんと、安全な所で、見下ろすように、カッコつけてるの。

奴にあるのは「絶望」や「諦観」じゃなくて、単なる「渇望」なんだよ。

見下ろせないから、騒げないから、注目されないから、悔しかっただけなんだ。

そんな輩がさぁ、あんな事件を起こすなよ。
頼むから。


世間の人なんて、深く考えないからさ、きっと、奴が起こした事件と、8月の小田急線車内での傷害事件とを同列に扱うんだよ。

根本が違うのにさ。

「人の成れの果て」が起こした事件と、
「餓鬼に成り下がった物」が起こした事件。
それくらいの差がある。
犯人の本質の部分、片やまだ何とかかんとか人で、片や餓鬼だからな。

どうか、一緒にしてくれるな。
そう願う。

私の中には、一片たりとも、ハロウィンの夜に酷いヤンチャして悦に入る様な輩の心象風景なんて存在していないんだよ。

だから、8月の京王線車内での傷害事件を真似たなんて言うんじゃないよ。

まぁ、あの輩にはわからんだろうけどね、ここで吐き出している私の言葉の意味なんて。

JOKERを観て、大きな勘違いをして、それを堂々と宣うような、どうしようもない「餓鬼」風情なんだから。

あんな輩、絶海の孤島に独りで置いといてやれば良いんだよ。
あの輩に相応しい懲罰は、死刑なんかじゃない。独房での無期懲役なんだよ。


私は、私の醜い心根に従うままに、あの輩の存在を拒絶・拒否する。
それを変えるつもりはない。


そして、
どうか、これを読んだ者に願う。
ここでの私の言葉に安易に同意してくれるな。
「安易」に対応するようならば、そういう方をも、私は軽蔑する。
何故ならば、貴方たちは、私の中の奥底に淀み続ける澱と呪詛の形を知らないのだから。
私が貴方たちの心根の最深部をはかれないのと同様にだ。
同じ言葉を私以外の誰かが発したとしても、表層が同じでも、その根幹にある形は皆違うのだから。
それを分かった上で、どうか安易に同意してくれるな、お願いだから。

安易に同意されるくらいならば、拒絶され、嫌悪され、糾弾される方が、まだ、私の心は安らかだと思う。

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