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言葉にまつわる自由、

フォーマルに言っても平たく言っても
恩人と呼ぶべき方の受け持つ雑誌の対談コーナーに招かれた。

聴く音楽も趣味も結構違うし、人生のステージや立ち位置も違う。
何かで共鳴、共感しているのは明らかなのに、ハッキリと言語化出来ないままかなり長い間お世話になりっぱなしだ。そして心の中で、しかしハッキリと勝手に恩を返そうと誓願している。形はまだ分からないけど、自己満足かも知れないけれど達成するだろう。

インタビューの間じゅう僕と彼との共通点を考えていた。そこから何でもって共鳴、共感しているのかが紐解けるような気がしたからだ。
ほとんどの時間を僕が合いの手を打つ方に回らなければならないくらいまくし立てるように話を繰り出す彼。その言葉尻に何か刺激される。
そして気がついた。
そう、彼が頻発する「クソみたいな」と言う表現は取りも直さず僕が普段からよく心の中で(タイミングで実際にも)発してる言葉だった。
僕の場合、もちろん何かれ構わず使ってるつもりは毛頭ないし、攻撃でもない。多くの場合自分の趣味趣向のポジションを確かめる意味、そして馴れ合いと決別するために使うこともある。
(おそらく彼もそうだと思う)

誤解をされたくないので念押す。その対象を侮辱するのが目的で使うのではない。自分には好き嫌いでものを言う自由が残されている、そして自分は他者への歪んだ気使いから、小さいかも知れないが嘘を利用する人たちの括りに入らないと言う宣言にも似た意味でその表現を使う事がほとんどだ。
「クソ」のような言葉を使用するしないに関わらず、個人の趣味趣向を誰かに伝えるのは全くもって悪でもなんでもない。
また口の悪い人の中には褒め言葉として「クソ」を使う輩もいる。

そして積極的にハードな言葉を使わないけどハッキリとした趣向に於ける主張をする友人も少ないけど存在する。その代表はHFさん。
おべんちゃらもごますりも彼には全く効かないし、そういうのが苦手だと自分でもよく言っていた。
全くタイプが違うがこの二人に共通していて、且つ僕を惹きつけるのは、利害に囚われずハッキリと好き嫌いを言う。シンプルな事なようで実社会で実践している人を僕はこの二人以外にあまり知らない。
趣味趣向が違うことと誰かの人間性を否定することはそもそも全く別のこと。それをキチンと理解し、誤解を恐れず態度で示す。
実は簡単なことではない。

SNS時代に生きる者の宿命なのか、コンプライアンスだらけの現代社会だけど特定の誰かを傷つけない自分の好き嫌いの主張は、特に芸術にまつわる事に於いて絶対に殺されるべきではないと思った。

インタビューは予測もつかなかった熱量で多方面の話題にわたり、その先々で彼の年齢に見合わないとも言える赤裸々なフラストレーションをぶちまける(便乗して僕も)。
終わった帰路、夕刻の都心特有の熱帯質の空気とは裏腹に、僕は胸の空く思いでいっぱいだった。





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