仲正昌樹教授は、連載ブログでなにを語っているのか――五分でわかるまとめ・そのⅡ

そのⅠはこちら

パターン②の例

アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著『知の欺瞞』

ジェームズ・ロバート・ブラウン著『なぜ科学を語ってすれ違うのか』

をめぐる捏造

 パターン②の捏造とは、以下のようなものです。

山川「Bという本はとても参考になったよ!」
仲正先生「Bという本には△△という欠陥がある。そんなこともわからずにBをありがたがる山川には、なにもわかっていない」
この△△が捏造、というパターン。

 ぼくはツイッターで、なんどかアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの『知の欺瞞』や、ジェームズ・ロバート・ブラウンの『なぜ科学を語ってすれ違うのか』について言及しました。どちらもポストモダンを批判した本です。すると仲正先生は次のように、これらの本はいい加減な内容のものである、と述べました。

サイエンス・ウォーズ(ソーカル事件)に登場したソーカル、ブリクモン、ブーヴレスや、ポスト・ソーカルの論客としてよく引き合いに出されるジェイムズ・ロバート・ブラウンなどは、(1)を軸に定義される狭義の“ポストモダニスト”と、(主として(2)に対応する)ファイアーアーベントやラトゥール等の批判的科学社会学者を一括りに“ポストモダニスト”と呼んでいる。誤解しているのか、意図的に風呂敷を拡げているのか分からないが、それが混乱の原因になっている。デリダやドゥルーズのテクストを研究している人間からしてみれば、我々と社会構築主義者の反自然科学的言説の間に何の関係があるのか、としか反応しようがない。『知の欺瞞』や『なぜ科学を語っているのか』を聖書扱いして、これらのテクストを読めと連呼している信者たちは、そういう肝心なことが分かっていない。

 仲正先生によると、『知の欺瞞』の著者ソーカルとブリクモンや、『なぜ科学を語ってすれ違うのか』(『なぜ科学を語っているのか』は仲正先生の誤記)の著者ブラウンらは、本来ポストモダニストではないはずの科学社会学者ラトゥールや科学哲学者ファイヤアーベントまで、一括りに“ポストモダニスト”と呼んでいるそうです。だから、こんな雑な本は読む価値がないし、そういう肝心なことがわかっていない山川らはアホ、というわけです。

 これも噓です。たしかにソーカルやブラウンは、ポストモダニストとファイヤアーベントやラトゥールをともに批判しました。しかしそれは、両者を混同しているからではありません。もちろん、ラトゥールらをポストモダニストと呼んでもいません。ポストモダニストとラトゥールらを区別したうえで、両者が共通する欠点をもっている、と主張しているだけです。仲正先生がいうように誤解しているわけではないし、意図的に風呂敷を拡げてもいません。

 まずは仲正先生も言及している、ソーカル事件について簡単に説明しましょう。物理学者のソーカルは、ポストモダンには少なくとも、次の三つの欠陥があると考えていました。

①わざとわかりにくく、あいまいな文章を書く。

②いい加減な知識で、まちがいだらけの科学話をする。

③誤った根拠から、科学はあてにならないと主張する。

 ソーカルはポストモダンのこうした欠陥を世間に知らしめるため、奇策に出ました。わざと①②③の特徴をすべてもつデタラメなポストモダン風論文を書いて、ポストモダン系評論誌「ソーシャルテクスト」に、味方面をして投稿したのです。驚いたことに、この論文は同誌に掲載されてしまったので、ソーカルはすぐに真意を明かしました。これをソーカル事件と言います。この事件はかなりの注目を浴びましたが、ソーカルはポストモダンへの攻撃を緩めず、ブリクモンとともに『知の欺瞞』という本を刊行します。これはポストモダン論者たちがその著作で、科学知識の深刻な誤りを大量に犯していると指摘したものでした。

 前提知識を説明したので、仲正先生の主張への反証にうつりましょう。ソーカルが、ラトゥールのような科学社会学者とポストモダンを混同しているかどうかについては、webで翻訳が公開されている、ソーカル自身の文章が参考になります。

ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと

 ソーカルはこの文章でラトゥールらの主張を批判しています。では、ポストモダンと混同しているかどうかをチェックしてみましょう。注14で、彼は次のように述べています。

実際、科学社会学の主流の雑誌ならば、ほぼ確実に私のパロディーにはひっかからなかっただろう。(だが、Social Studies of Science(科学の社会的研究)誌は、もし本当にパロディーでないとしての話だが、十分パロディーとして通用するような相対性理論についての長い論文を掲載している。本文のこの先を見よ。)(http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/norettaJ.html#14)

 ソーカルはまず、科学社会学の主流の雑誌なら、ポストモダン系評論誌であるソーシャルテクストとはちがい、自分のデタラメ論文を掲載したりはしなかっただろうと述べています。つまりソーカルは、科学社会学をポストモダンよりまともとみなしています。両者を混同してはいません。

 ソーカルはそのうえで、しかしある科学社会学系の雑誌には、自分のポストモダン風論文を思わせるような、いい加減な相対性理論についての論文が載っていた、とも述べています。この論文の書き手が、例のラトゥールです。彼について、ソーカルはなんと言っているのでしょうか。本文をみてみます。

「よろしい」 とサイエンス・スタディーズの代表は反論するだろう。 「確かに英文学科の我々の友人の一部は、ラカンやドゥルーズを真剣に読んでいるかもしれない。 しかし、我々の世界にはそんな研究者はいないのだ」と。 確かにそうだろう。 では、Social Studies of Science(科学の社会的研究)誌に掲載されたブルーノ・ラトゥールの相対性理論の記号論的分析をみてみよう。 ラトゥールは「アインシュタインのテクストを代表の派遣に関する社会学への貢献として読む[18]」という。(http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/norettaJ.html#r17)

 ソーカルは、サイエンス・スタディーズ(ラトゥールを含む、科学を人類学や社会学などの方法論によって研究する学派)が、ラカンやドゥルーズのような、ポストモダニストの教えにしたがっているわけではないと述べています。ソーカルはこのように両者を区別しつつ、しかしラトゥールの論文には「②いい加減な知識で、まちがいだらけの科学話をする」という、さきほど挙げたポストモダンの三つの欠陥と重なる特徴がある、と主張しているのです。ソーカルはつづく個所で、ラトゥールには①や③の特徴も見られることを論証しています。

 どう見ても、ソーカルはポストモダンとラトゥールの立場を混同してはいません。両者がちがう知的伝統にあることを踏まえたうえで、共通した問題を抱えていることを、その根拠も挙げて指摘しているのです。雑な話をしているのは仲正先生のほうと言わざるをえません。

 また仲正先生の主張は、ソーカルにたいして以上に、ブラウンにたいして不当なものです。そもそもブラウンの『なぜ科学を語ってすれ違うのか』は、ラトゥール周辺の人々、ファイヤアーベント、ポストモダンの立場がそれぞれどう異なるのか、あきらかにすることを目的のひとつとして書かれた本なのですから。

 ブラウンは、科学はあてにならないという主張をしてソーカルから批判を受けた人々を社会構成主義者と呼び、彼らをニヒリズム派自然主義派に分けます。ファイヤアーベントとポストモダンがニヒリズム派、ラトゥール周辺の人々が自然主義派です。この時点で、ラトゥールとポストモダンはかなり異質な立場とされていることになります。

ソーカルらによる攻撃のなかでも、とくに鮮烈なのは、いわゆるポストモダン主義者に向けられたものだろう。ポストモダン主義は、社会構成主義のなかでもニヒリズム寄りの一翼をなし、社会構成主義全体としてみればかなり特殊な集団といえる。(『なぜ科学を語ってすれ違うのか』、p134)

 この個所をみるだけで、ポストモダンは他の社会構成主義者と異質とみなされていることがわかるでしょう。

 ブラウンはたしかに、ファイヤアーベントやラトゥールをも批判してはいます。ただし、そもそも科学知識量の点で、彼らとポストモダンは大きくちがうので、一緒くたにはできないと考えているのです。

また、ソーカルの槍玉に挙がった人たちのなかには、サイエンス・スタディーズを専門とはせず、むしろ科学とはあまり関係なく、より一般的な文化の問題にとりくむ人たちがいた(デリダやラカンなど)。槍玉に挙げるにはもってこいだったとはいえ、ソーカルはいわば赤子の手をひねったわけだ。(『なぜ科学を語ってすれ違うのか』、p43)

 ソーカルは社会構成主義を批判するにあたって、科学については赤子も同然な、もっとも崩れやすい陣営であるポストモダンをまずは標的にしたのだ、とブラウンは述べています。

ニヒリスト陣営に属する人たちのほとんどは、科学の訓練はほとんど受けたことがなく、科学の理解となるとさらに乏しい。しかし、何人か重要な例外がいる。第一級の偶像破壊者パウル・ファイヤアーベントもその一人である。ファイヤアーベントははじめ、ウィーン大学で物理学を学んだ。第二次世界大戦中は、ドイツ国防軍で軍務につき(そして重傷を負った)、その後しばらくポパーの門下にあった。(『なぜ科学を語ってすれ違うのか』、p153)

 科学の訓練はほとんど受けたことがなく、科学の理解となるとさらに乏しいニヒリスト陣営に属する人たちのほとんどというのは、おもにポストモダンを指しています。これにたいしてファイヤアーベントは、主張に似たところはあれど、科学者としての教育を受けている点で異なるとブラウンは述べています。

 ラトゥールについてはどうでしょうか。彼を含む社会構成主義の自然主義派について論じた章の冒頭で、ブラウンはこう述べています。

社会構成主義のニヒリズム派をあつかった章〔第四章〕では、科学について語られたことのなかでも、ばからしさの度合いが大きいものを見た。ソーカルらはそういう発言の多くをとりあげてこてんぱんにやっつけた。いいカモにされた人たちは文化評論の専門家であることが多く、科学的な知識は悲しいほどお粗末だった。本章ではそういう人たちではなく、本格的なサイエンス・スタディーズの研究者に目を向けよう。(『なぜ科学を語ってすれ違うのか』、p201)

 ブラウンによれば、ニヒリズム派、つまりポストモダンの科学的な知識は悲しいほどお粗末であり、彼らの主張は、科学について語られたことのなかでも、ばからしさの度合いが大きいものでしかありません。よって彼らと本格的なサイエンス・スタディーズの研究者(もちろんラトゥールを含む)は同一視できないというわけです。

 またブラウンは、ソーカル事件のもたらした良い影響として、次の事柄を挙げています。

わたしの見るところ、「自分はポストモダンには反対で、正統的科学観を支持している」と胸を張っていいそうな人たちのなかにも、構成主義者のいいぶんをまじめに考えてみようという気になっている人が増えている。また、社会構成主義者のなかには、ポストモダン評論からなんとか距離をとろうと苦心している人たちがいる。(『なぜ科学を語ってすれ違うのか』、p33)

 ソーカル事件のおかげで、ポストモダンと他の社会構成主義のちがいが以前より鮮明になった、これはよいことである、とブラウンは述べています。

 ブラウンに、「お前はポストモダンと他の社会構成主義者を混同している!」という仲正先生の主張を伝えたら、どう答えるでしょう。おそらく「よしてくれ、ラトゥールやファイヤアーベントをあんな連中と混同するなんて、そんな失礼なこと言うわけないじゃないか」とでもいうのではないでしょうか。

 ぼくの記事の分量もそれなりに増えましたから、ここで打ち切りとしましょう。仲正先生はたった一回の連載で、すくなくとも三冊の本の内容について、事実とはまったく逆の説明をしています(じつはほかにも本の内容にたいするおかしな言及はあるのですが、ぼくの説明する気力が尽きました)。

一冊なら仲正先生の思いちがいということもありえますが、三冊ともなると、やはり故意の捏造を疑わざるをえない。そして仲正先生は、こうした捏造にもとづき「最後に一言。基礎的な国語力のない奴は、学問的な「論争」に首を突っ込むべきではない」と、かっこよくぼくを罵倒して、記事を終わらせています。いったいこの人にとって、哲学とはなんだったのでしょうか。

番外編につづく

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