仲正昌樹のソーカル事件をめぐる記事について

 仲正昌樹さんが「月刊極北」の連載で、ソーカル事件にたいして意味はないという話を以前からしている。

訳が分かっていないのに、「ポモはダメ!」と言いたがる残念な人達

http://meigetu.net/?p=2781

ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち

http://meigetu.net/?p=3065

哲学や文学研究はカンタンだと思っている連中の大言壮語

http://meigetu.net/?p=3142

○×脳の恐怖

http://meigetu.net/?p=5151

 さらに、最近三か月の連載は、すべてソーカル絡みの内容だ。ここではぼくも批判されている。

自分の脳内陣取りゲームを現実と思い込み、「お前は追いつめられている! 俺がそう思うんだから間違いない!」、と絶叫するソーカル病患者たちの末期症状

http://meigetu.net/?p=5361

ポストモダンをめぐる大陰謀論

http://meigetu.net/?p=5417

偏狭な「敵/味方」思考で退化が進み、棲息域が狭まる反ポモ人たち

http://meigetu.net/?p=5457

 仲正さんが話題にしているソーカル事件について知らない方は、堀茂樹さんの次の記事がわかりやすいのでご覧いただきたい。この記事で「知的ぺてん」と書かれているのは、当時未訳だったソーカルとブリクモンの著作『「知」の欺瞞』のことだ。

きみはソーカル事件を知っているか?

http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/Hori.html

 さて、ぼくはいままで、仲正さんの自分にたいする批判には触れずに来た。じつは、今書いている本の次には日本批評の本を書こうと思っていて、そこでポストモダンも取り上げるつもりでいる。本格的な反論はそこでやろうと思っていたからだ。

 放置した理由はもうひとつある。率直にいって、仲正さんのこの記事がどうしようもないものであることぐらいだれでもみりゃわかるだろ、とたかをくくっていたのだ。

 しかし最近周囲から「あんまりスルーしているのもどうか」と助言を受けた。ぼくが反応しないのは、仲正さんのぼくにたいする批判がクリティカルであるせいだと受けとっている人がけっこういるんだそう。それも不愉快なので、反論することにした。

 そもそも仲正さんは、なぜ最近ソーカル絡みの記事を連投しだしたのか。仲正さんは二〇一六年一二月五日の「○×脳の恐怖」でも‘‘ソーカル信者‘‘批判を書いているが、その次の記事ではソーカルは話のメインになっていない。最近のソーカル話連投は、二〇一七年二月五日の「自分の脳内陣取りゲームを現実と思い込み、『お前は追いつめられている! 俺がそう思うんだから間違いない!』、と絶叫するソーカル病患者たちの末期症状」からはじまった。この記事以降、ぼくも批判されるようになっている。

 その直前、一月二三日に、@OfSkinerrianさんという方が次のようなツイートをした。


 リンクは@OfSkinerrianさん自身のブログへのもの。

 くりかえしになるが、仲正さんは以前から、ポストモダンの科学用語濫用にたいするソーカルの批判はたいしたものじゃないと主張していた。ところが@OfSkinerrianさんがブログで書いたところによると、仲正さんが著書『集中講義 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』で、柄谷さんのゲーデル論について説明した記述にもまちがいがあるという。

http://skinerrian.hatenablog.com/entry/2015/09/10/011500

彼のいうとおりなら、仲正さん自身がソーカルによる批判の当てはまる人物だったことになる。

 ぼくはゲーデルにくわしくないので@OfSkinerrianさんの記事がどの程度妥当かは判断できないのだが、彼の指摘は的外れでなかったらしい。なぜならこのツイートに反応して、当の仲正さんが@OfSkinerrianさんのブログ記事にこうコメントしたからだ。

面倒なので、前回はスルーしたけど、繰り返しツイートしているので、一応答えておきます。この部分は、ゲーデルの不完全性の定理をちゃんと説明しようとした文ではなくて、現代思想の中での使われ方を説明しようとした文です。ここだけ取り上げると、生半可な理解でゲーデルを語っているように見えるのは認めますが、本当に説明しようとしたら、物凄い枚数が必要だし、文脈からして、正確に説明しているのではないことは分かるだろう、という判断からこういう雑な感じで書きました。私は柄谷のゲーデルの引用は不正確というより、不要と思っていますが、全く言及しないのも変なので、彼の議論の主旨を推測・再構成したつもりです。話の繋がり具合からして、細部において、その分野の専門家からすると許容できないような要約をしてしまうのは、多かれ少なかれあることではないですか。せめてこういう風に書けないかという提案なら建設的だと思いますが、それを何か鬼の首を取ったように言われたら、揚げ足取りにしか思えません。他の記事についても言っておきたいことはありますが、きりがないのでこれだけに留めておきます。ブログやツイッターで「答え」をもらっても、まともな会話にならないので、無視します。言いたいことがあれば、メールでお願いします。http://skinerrian.hatenablog.com/entry/2015/09/10/011500

 自分の説明がすくなくとも正確でなかったことは、仲正さん自身が認めていることになる。

 さて、このときぼくも尻馬に乗ってツイッターで仲正さん批判をした。さきにも触れたように、仲正さんの批判はのちにまとめてするつもりだったのだけれど、ネタをひとつ放出したのだ。先述した『集中講義 日本の現代思想』は、日本でのポストモダン論の展開を紹介した本なのだけれど、仲正さんはこの本で、近年ポストモダンが勢力を弱めていることに触れながら、ソーカル事件に一切言及していない。


 ぼくとしては以降の仲正さんの逆上ぶり(「自分の脳内陣取りゲームを現実と思い込み、『お前は追いつめられている! 俺がそう思うんだから間違いない!』、と絶叫するソーカル病患者たちの末期症状」というタイトルをみていると、絶叫してるのはどっちやねんといいたくなる)をみれば、@OfSkinerrianさんやぼくの批判は有効だったと、周囲の人々も判断するだろうと思っていた。この見通しはどうやら甘かったようだ。

 というわけで、仲正さんが「自分の脳内陣取りゲームを現実と思い込み、『お前は追いつめられている! 俺がそう思うんだから間違いない!』、と絶叫するソーカル病患者たちの末期症状」で行った、ぼくのツイートにたいする批判に反論しておく。

本当に呆れ返る。サイエンスウォーズとソーカル事件が、日本の現代思想において特筆すべき重大転換点だと誰が決めたのか? 『集中講義! 日本の現代思想』は、主として現代思想の社会史的背景について論じた本である。山川は、ソーカル事件が、全共闘、石油ショック、産業構造の転換、冷戦の終焉、バブル経済、グローバル化、大学制度改革などと同じレベルの大事件だとでも思っているのか。これまでの彼の雑なこと極まりない言動からすると、ソーカルに論破されたせいで、ポストモダンが衰退したと言いたいようだが、論争の勝ち負けで思想のブームが決まるなどと思っているのか?まるで、一昔前の頭の固いマルクス主義者のような発想だ。http://meigetu.net/?p=5361

 このくだりを読んだときは、あまりのことにぼくも目をパチクリさせた。「論争の勝ち負けで思想のブームが決まるなどと思っているのか?」はい。すくなくとも思想潮流を左右する大きいファクターなのは間違いないでしょう。そうでないなら、なぜ人々は論争をするのだろうか。そのあとの「まるで、一昔前の頭の固いマルクス主義者のような発想だ」も謎だ。論争に負けた思想は人気を失う、というのはマルクス主義的発想なのか。

 仲正さんがそのあとで述べていることも、正直ぼくにはなにをいいたいのかよくわからない。

私は千葉氏や東氏とさほど接点があるわけではないので、積極的に擁護したいとも批判したいとも思わない。ただ一つ言えることは、「ソーカル事件で日本の現代思想史が終った!」と決め付ける山川のような自称批評家よりも、彼らの方が遥かに哲学・思想史研究におけるエビデンスを重視しているということである――山川などと比較するのは、本当のところ、彼らに対して失礼なのだが。「たかはし」と同様に山川も、“ポモ論客”たちがインチキ論文で楽に出世していると主張するのであれば、自分で査読付き学術誌の論文に投稿し、業績を作り、どこかの教員ポストに応募してみるべきだ。自分でやってみる勇気もない卑怯者のくせに、憶測で他人を誹謗して悦に入っているのであれば、山川は最低の屑である。http://meigetu.net/?p=5361

 ぼくはそもそも「ソーカル事件で日本の現代思想史が終った!」なんていった覚えはないのだけれど。ぼくは、①仲正さん自身がポストモダンの勢いは弱まったことを『集中講義 日本の現代思想』で認めている。②しかしおなじ本で、ソーカル事件には一切言及していない。この点を批判したのだ。それはぼくのツイートから見ていただけると思う。

“ポストモダン系”の思想は九〇年代に入って、八〇年代ほど一般的に注目されなくなったが、バタイユ、ラカン、デリダ、ドゥルーズ、フーコー、アガンベンなどの影響を受けている、人文系の若手研究者は今でも少なくない。現に東氏や国分氏、千葉氏等は注目されている。http://meigetu.net/?p=5361

 ポストモダンの影響力はかつてにくらべ弱まったが、いまだ存続している、と仲正さんはいう。もちろんぼくもそう思っている。だからえんえんと批判しているのだ。日本におけるポストモダンの影響力について、ぼくと仲正さんの見解にほとんど相違はないように思われるが、いったい彼はぼくのなにに怒っているのだろうか。すくなくともぼくには、感情的な反発をただ書きならべているようにしか見えないのだが。

 ぼくが仲正さんをツイッターで批判するより前に、仲正さんがブログに書いていたソーカル事件についての記事にも触れておこう。ここでは「ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち」をとりあげる。

更に言えば、ソーカルは「境界を侵犯すること」の中で、フリチョフ・カプラやシェルドレイクなど疑似科学的な議論で評判の悪いニューサイエンスの旗手たちの名前を挙げ、彼らがあたかもラカンなどの“ポストモダニズム”と関係しているかのように印象操作をしているが、『「知」の欺瞞』の方ではさすがに、彼らのことを本格的に取り上げてはいない。無理に結び付ければ、怪しそうなものすべてに“ポストモダン”のレッテルを貼っているだけだと思われかねないから、少し慎重になったのであろう。しかし日本の(山川注:ソーカル)信者たちは、そういう微妙な駆け引きが分かっていないようである。http://meigetu.net/?p=3065

 なるほど!そこに微妙な駆け引きがあったとはまったく気がついてなかった。日本のソーカル信者はおろか、ソーシャル・テクスト編集者のアンドリュー・ロスも、ソーカル本人も気づいていないだろう。おそらく世界広しといえども、そう指摘しているのは仲正さんだけではないだろうか。なぜなら、そんな駆け引きはないからだ。

 よく考えてみてほしい。「境界を侵犯すること」はそもそもポストモダン批判の文章ではなく、ソーカルが寄稿したデタラメ論文だ。ソーカルがこの論文でニューサイエンスの人々を肯定しているのは、ソーシャル・テクスト誌が、そうした内容の論文でも掲載してしまうことを実証するためである。

 仲正さんは、ソーカルがすでにデタラメだと明かした論文について、「デタラメが書いてある!!これは印象操作だ!!」といっているわけだ。正直に言って、ここでぼくは仲正さんの読解力にかなり不安を覚えた。

 もうすこし続けよう。仲正さんはおなじ記事で、次のようにも述べている。

それに加えて、ソーカルが引用した何人かの“ポストモダン系”の思想家の論文に、物理学や数学に関する不正確な記述が何か所かある、ということも確定的な事実と言っていいだろう。ただし、そうした不正確な記述が、それらの思想家の論文の核心に関わることなのか、全体の論旨にあまり影響しない周辺的な記述にすぎないのかについては、ソーカルたちと、批判されている思想家や彼らに立場的に近い研究者の間には、かなり意見の相違があるだろう。http://meigetu.net/?p=3065

 また、こうも述べている。

ラカンやクリステヴァ、ドゥルーズ=ガタリなどに関する解説書や研究書、批判的な読解を試みた論文などはたくさんあるが、その多くでは、数学っぽい話は重きを置かれていないか、端的に無視されている――別にソーカルに影響されて無視しているわけではない。自然科学っぽい記述は、彼らのテクストを読むうえであまり重要でないと思われているからである。http://meigetu.net/?p=3065

 つまり、ポストモダンにとって科学っぽい記述は枝葉末節にすぎないというのが一般的な理解だ、真剣に相手にしている人は少ない、そんなところに誤りがあってもたいして重要じゃない、と仲正さんはいいたいようだ。

 なんだか違和感を覚える。@OfSkinerrianさんのブログによると、仲正さんは『集中講義 日本の現代思想』で、柄谷さんのゲーデル論を解説していたのではなかっただろうか。該当箇所を開いてみると、仲正さんは柄谷さんのゲーデル論を3ページも割いて紹介し、次のように述べている。

柄谷は、それ自体が商品として流通する貨幣の問題も、構造の構造の……構造をめぐるポスト構造主義的な問題系も、そして、「私」という意識の――「主/客の区別が成立する‘‘以前‘‘にまで遡る――起源を探求しようとする「私」をめぐる現象学的な問題も、その根底にあるものを突き詰めていけば、最終的に「不完全性定理」の問題に収斂していく、と指摘する。(『集中講義 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』、p181)

 仲正さんは、柄谷さんにとってゲーデルの不完全性定理はあらゆる問題の根底にある重要なものだという話をしているようにしか、ぼくには読めない。柄谷さんは例外で、本場フランスのポストモダニストにとってはそうでないということだろうか。しかし仲正さんは、つづく個所で次のようにも述べている。

軽いノリの浅田と重厚そうな柄谷が、現代日本における「知」の最前線として位置付けられるようになると、彼ら、および彼らが主として参照するラカン、デリダ、ドゥルーズなどを軸に「現代思想」の‘‘中核部‘‘のイメージが次第にはっきりしてくる。(『集中講義 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』、p181-182)

 これをみると、仲正さんは柄谷さんをポストモダンの紹介者としてそれなりに認めているようだ。ブログで述べていた、ポストモダンにとって理系的な話は重要でなく、一般的には無視されているという話は何だったのだろう。

 @OfSkinerrianさんのブログに仲正さんが寄せたコメントをよく読むと、次のように書いてある。

私は柄谷のゲーデルの引用は不正確というより、不要と思っていますが、全く言及しないのも変なので、彼の議論の主旨を推測・再構成したつもりです。
http://skinerrian.hatenablog.com/entry/2015/09/10/011500

 仲正さんは自分でも、『集中講義 日本の現代思想』と「ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち」との内容の不整合に気づいたのではないか。「ゲーデル話は柄谷さんの主張では重要じゃないんだからね!一応解説しただけだからね!」と言い訳しているように、ぼくには思える。

 仲正さんの、ソーカルについての一連の発言はおおむねこんなレベルだ。ぼくが、仲正さんの記事は反論に値しないと考えた理由をおわかりいただけただろうか。

 

 



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