独立後,木造にハマる/「スカイハウス」の秘密/農地解放のショック─「菊竹清訓氏が述懐する丹下健三」後半


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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

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目次
●独立後,木造にハマる
●「スカイハウス」の秘密
●農地解放のショック
●加納さんと「海上都市」
●丹下さんの業績を甘く評価してはいけない



独立後,木造にハマる

─武先生のところにしばらくいて,1953年に独立されますが.

菊竹 独立といったって,江戸川アパートの6階の小さな部屋でしたから.


─なかなか由緒のあるところで.(笑)

菊竹 ドアの前に表札がかかっていただけで.(笑)
そこで,ブリヂストン関係の仕事をやるようになりました.
てっきり新築の建物を頼んでもらえると思っていたところ,いただいたのは,木造の12坪くらいの建物を解体・移築するといった,営繕でさえいやがってやらないような仕事でした.鉄筋コンクリートをやりたいと思っていたのにね.(笑)
木造は勉強していないのでとても苦労しました.大工さんや営繕の人にすべてを聞かないと何もできませんでした.

結局,ブリヂストンの仕事で木造を2年半くらいやりました.これは勉強になりました.こうした増改築の仕事も,半年ぐらいたつとだんだん面白くなってきたんです.そして,デザインも自由にやれるようになってきました.
前のものをそっくり建てるんじゃなくて,ほとんどかたちを変えても,すべて古材を使うことで自由にできるようになりました.


─これは,木造でしかあり得ないことですね.

菊竹 そこで,日本の木造建築というのは1000年以上かかってつくり出されてきた見事なシステムなんだなと改めて知らされました.
結局,ここで学んだ考え方が,そのあと影響してきていると思っています.

戦後の日本というのは現代建築の申し子のような時代だったと思うのです.僕はそういう時代の中で鉄,ガラス,コンクリートの建築をやるつもりでいたのに,木造ばかりやらされた.ところが,それをやっているうちに,木造のような自由さや鉄やガラスやコンクリートのような現代材料でもできるような仕組みを考えるべきだと思うようになった.これが,建て替えとかとり替えといったメタボリズムにつながる考えのきっかけになったのだと思います.

そういう経験があるものですから,C.アレグザンダーがやった「盈進学園東野高校」(『新建築』1985年6月号)などは,木造建築としてはまったく価値は認められません.
なぜなら欧米の人たちは一回性なんです.それを解体してまた別に使うなどという意識はなくて,つくればいいという考え方なのです.だから,メタボリズムとは技術に対する考え方がまるで違っている.


─ヨーロッパの場合,木造の修理でも決して解体修理はしませんね.どんなに傾いても解体しちゃうともとには戻らない.

菊竹 トラスと和小屋を比較すると,和小屋のほうは,スパンが変わろうと屋根勾配が変わろうと自由自在なんです.ところが,トラスは解体すると7割欠損してしまう.
同じスパンで使うときは締め直してまた使えるけれど,スパンを変えると廃材だらけになってしまう.それとトラスは応力を集中させますね.木造で応力を集中させたら集中させたところの木材は耐えられなくなる.

ですから日本の木構造というのは応力を分散させる仕掛けをいろいろと考えてきていて,それがあるから何百年ももつんです.
応力を集中させてしまった材は,解体すると使えません.今は応力が集中する場所をみんな鉄にして解決しようとしていますが,それが本当によい解決かどうか疑問です.たとえば地震のとき,伝統的な相持ちの構造だと力が分散しますが,集中させているとどこかに破壊が起きる.

これからは,構造体に代替のバックアップシステムをいかに組み込んでいくかという問題を,日本の木造技術に見習って考えていこうと思っています.


─鉄筋コンクリートもされるようになりますね.

菊竹 1950年代から60年代にかけて,世界の建築界はコンクリートの建築に夢をもっていたんです.永遠の材料という気分だった.

ところが,いざ使いはじめて見ると具合が悪いところが出てきた.プレキャストコンクリートでできないかといろいろ考えましたが,コンクリートの材質そのものがそんなに耐久性がない.耐久性をもたせようと思えばもっと被覆を厚くしなくてはいけない.そうするととても重たいものになる.
300kgや500kgの積載荷重のために自重が1tもあるという構造にするというのは,矛盾しています.せめて積載荷重と同じ自重を目指すと,鉄しかないんですよ.それから,鉄は溶接をやらないことです.溶接すると解体ができない.
どうしてもやらなくてはいけない場合は,あるユニットまでを工場で溶接し,それを現場で組み立てるべきです.それは解体して再利用したいためです.


─そこに木造の考え方が.

菊竹 木造の延長なんです.だからあんまり成長していない.(笑)




「スカイハウス」の秘密

─その後,1958,59年にかけて「スカイハウス」や「塔状都市」(『国際建築』5901)や「海上都市」(『国際建築』5902)を発表され,菊竹さんの歴史に残る代表的作品が続きます.しかし実は,「スカイハウス」は歴史的位置づけを取りづらい住宅なんです.当時の一般的なプランニングの原理つまり家族中心のLDK的なものやコアプランをほとんど無視しておられる.戦後の民主的なファミリーイメージじゃないですね.

菊竹 実家のあった福岡県の住宅の座敷は,だいたい4間四方の正方形です.
民家の大きさはだいたいそんなものでした.そこで,棲み分けというか,夏は北側のほうの部屋で過ごし,冬は南の部屋で過ごす.

それと,地主の家というのは,親戚がめったやたらに遊びにきていて,誰だか知らない人が泊まって大きな顔をしているんです.(笑)
子どもはみんなどっかに追いやられて,あっちこっち家の中を放浪することになる.ですから今和次郎先生のおっしゃる子ども部屋不要論そのもので,大きな空間があって適宜やっているという感じです.
子どもは親戚中から叱られたりするし,そこに女中さんや番頭さんが加わって,大家族だったんですよ.さらに近所の寄り合いみたいなものもある.だから,僕自身は戦後の核家族のような生活は想像できなかったんですよ.むしろ害があるとさえ思いました.


─核家族が?

菊竹 そう.だって,子どもを叱る人がいないんですから.それからお祈りをする場所も機会もないでしょう.
私の実家では,ほとんど毎日のように祖先の誰かの何回忌があって,命日じゃない日がないくらいでしたし.


─「スカイハウス」はなんとなく方形のお堂の感じがするんですが,それが頭の中に刷り込まれていて.(笑)

菊竹 そうかもしれませんねえ.(笑)
ひとり個室に,なんていう感覚はまったくなかった.


─そういう暮らしをされて,戦後の核家族的なものへの憧れはありませんでしたか?

菊竹 全然ありませんでした.


─めずらしいですね.そういうのに憧れる人は多いんですよ.長谷川尭さんは大きな旅館の息子で,すごく家族の団欒に憧れたといっておられました.

菊竹 そういう生活の中で子どもは次第に社会性を身につけていくものだと思っていましたし,自分たちだけで,顔ぶれが変わらないというのも,かえって面白くない気がします.


─「スカイハウス」はむしろ戦前の大型住宅のイメージをもっていた.

菊竹 そうですね.海外の方も多くこられましたが,何か見られちゃ困るということもなく,まあ,家というのはそういうふうに開放されているものだと思っていたんです.




農地解放のショック

─「スカイハウス」に続けて「塔状都市」と「海上都市」を『国際建築』に発表されますね.これは?

菊竹 田辺員人さんのすすめです.
スケッチは前年につくっていたんですけど,恥ずかしいから発表してなかった.そうしたら田辺さんがきて,「これ面白いじゃないの」っていうんです.


─つくられた経緯はどういうことだったのですか.

菊竹 解体・組立てを都市でやったらどうできるかのスタディをやっていたんです.それを田辺さんが見て,「これを雑誌に出す」という.当初は少し困惑したんです.


─「スカイハウス」も空中に浮いていますが,「塔状都市」と「海上都市」も浮いてますね.

菊竹 土地との関係というのは,強烈に僕の頭の中にあるのです.土地から追放された人間でしょ.僕は.
農地があって,この平野は自分の土地だと思っていたものが,何もなくなっちゃったわけですから.だからやむを得ず東京に出てきたら,東京には土地があるんですよ.
「都市だって土地を提供すべきだ」とこのとき思ったんです.


─農地解放を都市でもやるべきだと.

菊竹 そうです.都市を解放すべきだと.当時新聞にも書きましたが,周りからは「それはラディカルだ」「社会主義だ」といわれました.こちらは社会主義でも何でもなく,もっと住みやすい環境をどうつくるかを考えたら,といいたかったのです.ところがみんな自分の土地にこだわって,結局棲みにくくなっている.

だから投影するとほんのわずかで,大部分の土地は解放できます.僕は今でもそう思っています.


─土地から追放されたという強い想いについてですが,地主時代は菊竹さんはまだ子どもですね.

菊竹 ええ,そうです.


─地主的体験はあるんですか.

菊竹 ええ,あります.祖父につれられて,その時代はまだ駕篭でしたけれど,番頭さんたちと一緒に農地を見聞して歩きました.


─菊竹さんもその駕篭に乗って?

菊竹 いや,僕はついて歩くんですけど.


─なんか江戸時代みたい.(笑)

菊竹 それが年に2回,田植えと稲刈りの時期にあるんです.父の時代になると駕篭が人力車になりました.だから家には人力車が何台もありました.


─古代の国見みたいに自分の田んぼを見にいくわけですね.

菊竹 かなり大変なものでしたよ.4日も5日もかかって泊まりがけでいくわけですから.各村の小作人の代表の家に泊まってまわりました.


─「吉野ヶ里」遺跡は菊竹家の土地だったとうかがいましたが,久留米から吉野ヶ里まで相当ありますよ.

菊竹 ええ,しかし歩いていってましたよ.でも,もし吉野ヶ里が出てこなかったら僕はもうすっかりあの場所を忘れているところでした.忘れるべき過去として自分の頭の中から消そうとしていました.


─どれくらい土地をもっておられたんですか.

菊竹 実はその記録が欲しいのです.当時小作米を納めた帳簿があったのですが,戦後便所紙にしていまいましてねぇ.(笑)
どこかにまだ残っているかと思うのですが,見つかっていないのではっきりとわかりません.




加納さんと「海上都市」

─1958年4月に,住宅公団総裁の加納久朗さんが,東京湾埋め立て構想を発表されているんです.丹下さんの「東京計画1960」(『新建築』1961年3月号掲載)はこれが下敷きらしいのです.加納さんは8月にもう一度発表をしているようなんですが,菊竹さんの「海上都市」はその年の秋に構想されていることになります.そのへんの前後関係は覚えておられますか.

菊竹 加納さんが住宅公団の総裁になられてから,川添登さんをはじめとしてメタボリのメンバー4〜5人が呼ばれて,これからどうしたらいいかを聞かれました.


─総裁になられたころですか.そうするとまだメタボリグループは結成されていないはずでしたが.

菊竹 ええ,結成はされていませんでした.


─会われたのは,「海上都市」の構想の前でしたか.

菊竹 同じころだったと思います.


─加納構想が出る前に加納さんに会われた.

菊竹 ええ,雑談みたいでしたがお話ししました.こちらはまだ名もない建築家なのにかかわらず,呼んで話を聞くということは,ふつう考えられないことで,えらい方だなあと思いました.


─「塔状都市」については?

菊竹 「塔状都市」の案をつくるときには,僕もずいぶんいろんな人に話を聞きにいったんですが,建築研究所の所長をされていた竹山謙三郎さんの話が印象に残っています.
こういう案をつくっていると話したら即座に「日本のような地震が多くて地盤の悪い国ではなるべく集中して高く建てるのがいい」とおっしゃったんです.それで僕も元気を得て,当時は31mの高さ制限がありましたが,思いきり高い300mの建物を考えてみました.


─翌月発表の「海上都市」も同時にやっておられましたか.

菊竹 ええ.ほとんど同時でした.都市空間をうまく利用していくためには,どうしても人やモノの関係から街区を移動する必要がある.そのためにはフローティングだということで,案をつくりました.そのころ四日市などで行われていた埋立てにずいぶんと抵抗感があったんです.海岸を埋め立ててコンビナートをつくるという考え方は間違っているのではないかと思ったのです.

そのもっとも大きな問題は,再構成ができないということです.
ケミカルインダストリーというのは技術開発によってその組合せが変わってくるんです.工場間の材料と製品のやりとりが,設計時点から2〜3年後にもう違ってくるんです.そこで,移動を考える必要があると思った.なおかつ,陸地を延長して埋め立てるというのはよくない.
そこで海上につくるべきだと思い提案しました.ですから,最初の案は工業都市としての海上都市の提案でした.


─なるほど.支持杭は用いずに,あくまで浮かせようと.その翌年,デザイン会議がありましたが,「海上都市」はそのためのものですか.

菊竹 そのこと考えていたことをまとめて出したのだと思います.


─「塔状都市」「海上都市」をやっていたころはメタボリのメンバーとのつき合いは始まっていましたか.

菊竹 いえ,ありません.デザイン会議の準備のために1年くらい前からときどき会うようになりました.途中から参加したかたちです.いちばん早くから参加していたのは黒川さんだったかと思います.


─菊竹さんを誘ったのは誰でしたか.

菊竹 川添さんです.




丹下さんの業績を甘く評価してはいけない

─ちょうどこのころ,丹下さんが「東京計画1960」を海上都市型で発表されるわけですけれど,菊竹さんと似ているところと違うところがある.丹下さんは,埋立てはしないけれども固定した建築にはなっている.

菊竹 水深が浅いから,なかなか実際的な案だと思います.


─丹下さんは終戦直後の復興計画の後,この計画まで都市計画がなくて,久しぶりに発表されるわけですが,丹下さんの案の印象はいかがでした?

菊竹 ちょうどメタボリグループでは,増築について何が基本の骨格になり,何が副次的になるかというようなことを議論していたんです.
ヨーロッパでもスミッソンなんかのグループが同じようなことを言い出したりして,モビリティが,世界の求めた時代の気分だったのだと思います.


─モダニズムの安定性からもっと変化に対応するものを求めはじめた.当時はみんなそれを意識している感じでしたか.

菊竹 そうですね.特にチームXに移行してからそういう意識が高くなったんじゃないでしょうか.


─メタボリズムはそれを全面に掲げましたからね.その点ではもっとも純度の高い視点でしたね.

菊竹 実はね,途中からアーキグラムが,すべては自分たちが考えたことで日本のメタボリズムは真似をしているんだ,といい出したのです.ヨーロッパ人はそういういい方をしたがる人が多いですね.

一度,アーキグラムが日本に来たことがあるんです.そのときにいろいろと論争をしたんですが,やはり,平行線でしたね.私たちはアーキグラムなんかの影響を受けて考えたわけじゃないし,あれはいい過ぎだと思うのです.
海外では,丹下さんの大屋根はヨナ・フリードマンの真似だといわれましたが,それもいい過ぎだと思うのです.社会も似た状況になってきて,ほとんど同時多発的に同じ発想が生まれているものだと思うのです.


─外国の研究者が見てとても迷うことで,僕らも聞かれて困るんですが,丹下さんの「東京計画1960」は「成長」という考え方でつくられていて,その研究室に黒川紀章さんたちがいたわけだから,外国人は「東京計画1960」はメタボリズムの代表作ではないのか,と聞いてくるんです.
丹下さんはメタボリズムのメンバーじゃないし,「あれは丹下さんの弟子の世代だ」といっても,「似てるだろう」といわれれば,似ていなくもないし.

菊竹 日本の建築家の人たちは,丹下さんの業績を甘く評価しすぎているんじゃないでしょうか.丹下さんの仕事は,誰かの真似をしてできるようなものではないんですよ.日本がもっと正当に評価をしなくてはいけないんです.

スタッフとしてアイデアを出したからといって「それは自分が考えて丹下さんがそれを使った」なんていう人がいますが,それはいい過ぎですよ.そういう場を与えてもらって,はじめてできたんじゃないかと思うんです.丹下さんの建物の一部を切り取ってやったと,堂々といっても全然恥ずかしいことじゃないんです.造形的に優れていればそれでいいんですよ.日本の伝統というのはそういうものなのですよ.○○写しとか,○○流といったかたちで自由にコラージュしてね.

だからこそ日本の文化やデザインというのは生命力をもっているわけです.UIAの審査で経験したことなんですが,僕があるところを推薦したところ,彼の作品のどこが誰の真似ということを細かくあげつらうのです.そんなことをいったら誰だってなんかの真似なわけで,何もできなくなっちゃう.


─だいたい,ミースとコルビュジェの影響を受けないで現代建築をつくることなんてできないんだから.(笑)
メタボリズムの後,「チーム東京」をつくろうという動きがあったんです.丹下さんが考えておられた.高山英華,丹下健三の両先生がトップで,大谷幸夫,大高正人,菊竹清訓,槇文彦,磯崎新,黒川紀章さんらが予定メンバーです.丹下さんが「メタボのグループはみんな一生懸命やっていいけれど,大谷さんや磯崎さんなど入っていない人もいるので,『チーム東京』をつくってみんな一緒にやったらどうか」といわれて,展覧会もやったそうなんですが,覚えておられますか.

菊竹 覚えています.丹下さんは,具体的な計画になんとかコミットして大きく環境を変えなくてはいけないということを,チームXの人たちなどと話をしていて感じられたんじゃないかと思います.丹下さんは海外にいくときは,よく私たち若い建築家の案をパネルにしてもっていかれて,いろいろ話をしてこられました.向こうのリーディングアーキテクトと親密な議論ができたのは,おそらく丹下さんがはじめてではないでしょうか.

─今日は長時間,ありがとうございました.
(1999年7月5日,菊竹清訓建築設計事務所にて.『新建築』1999年9月号掲載)



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