note丹下健三

神話化する丹下健三・マイスターとは異なる設計手法─「槇文彦氏が述懐する丹下健三」前編

この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。


「何ををいつも探し求める非マイスター的な態度。そのプロセスが非常にエネルギッシュだったんです」
槇文彦


目次
●透視図ににじみ出る執念
●神話化する丹下健三
●科学的なアプローチを求められる
●マイスターとは異なる設計手法


透視図ににじみ出る執念

─槇さんが丹下健三という名前を知ったのはいつ頃のことですか.

槇文彦 建築学科に入ってからです.僕は大学に入るまで建築界に対する知識がそれほどあったわけではありません.知っていたことといえば,建築界には偉い先生がふたりいる.
ひとりは東大の岸田日出人で,もうひとりは東工大の谷口吉郎であると,そんな程度です.といいますのは,たまたま友人のお父さんが,藤島亥治郎さんの同級生で,鉄道省の技師をしていたんです.その息子と慶応時代から仲がよかったものですから,建築へ進学するということを決めたときに,その方のところにお話を伺いにいったんです.ですから,偉い先生がふたりいるという話は,そのときに得た知識ですね.ただ,いかんせん藤島さんの同級生ですから,感覚が今日的ではなかったように思います.
その頃の丹下先生は,彼ら大御所に較べれば,まだ知る人ぞ知るという存在だったのでしょう.川添登等限られたジャーナリストが,新しい動きはないかと躍起になって探していたときに目に留まったという時期だったのではないかと思います.

その丹下先生をまさに売り出し中の建築家たらしめたきっかけは,一連の広島のコンペです.僕が大学に入るのは昭和24年ですが,その前の年に広島平和記念聖堂のコンペがありました.
大学では当然,透視図法を習いますが,このコンペで大谷幸夫さんはインテリアの透視図を網膜透視法で描いたんです.
一般的な透視図というのは,画像と平面を仮定して見ていますから,見込みの角度が大きすぎるとどこかで歪んできます.網膜透視の場合,それを魚眼で,つまりカーブの画面で見ますので,手前のオブジェが歪まないんです.そのかわり,たいへんな労力がかかる.誰が知っていたテクニックかはわかりませんが,大谷さんが苦労して書いたというその図面を見せてもらったことがあります.
そのときはよくわかりませんでしたが,その後,自分で仕事をするようになって透視図を描くようになりますと,網膜透視にはたいへんな労力がかかることがわかり,それと同時に丹下先生がコンペにかけていた執念の重みがわかりました.ほかの人が普通の透視図しか描かないときに,わざわざ網膜透視に挑戦したということが,強い印象として残っています.

─槇さんが在籍していた当時の大学の授業というのはどういうのだったんですか.

槇文彦 1年生のときは図面のトレースです.
僕の時代には3人の先生が,それぞれ課題を出すのですが,太田博太郎先生が桂離宮,岸田日出人先生が市川の自宅,中廊下式の平屋の当時の典型的な昭和初期の住宅ですね.玄関入ったところに洋間の応接室があって,南側に部屋が並んでいるというものです.
3番目が丹下先生で,ル・コルビュジェのスイス学生会館です.課題に対しては,その建物の意義などについて若干の説明があったわけですが,それによって丹下先生とコルビュジェがセットとなってわれわれの中に入ってきました.
この課題について,丹下先生は僕の透視図をあまり評価してくれなかった印象が残っています.どうも丹下先生は,スイス学生会館の表から見たほう,つまり開口部が並んでいて下にピロティがあるという,あちら側のエレベーションに意義があると考えられていたようなんです.それに対して,僕は逆の石積みの壁のある入口のほうから見たパースを描いてしまいました.表から見てパースを描いた人は,下手でも評価されたんですが....
2年生になりますと,丹下先生が街角に立つオフィスビルという課題を出されました.3階建てで,1階は商業施設,2〜3階はオフィスという構成です.敷地は決められていたと思います.

また,2年のときには都市計画の授業がありまして,丹下先生はその授業を受けもっていましたが,その記憶が確かではありません.といいますのは,声が小さくて,聞いててもちっとも面白くないんです.そのうち誰かが,大学の生協で講義のコピーが売られているということを調べてきまして,行ってみると本当に前半の講義の内容をガリ版刷りしたものが売っているんですね.それを書いまして,それで授業にはまったく出なくなってしまいました.

2年生くらいになりますと,設計派と非設計派に分かれてくるじゃないですか.そうしますと設計派のほうは授業に出なくなりますね.できるだけあんちょこみたいなものですまそうと思うわけです.設計だけに志を立てたわけですから,そのほかのことはなるべく簡単にすまそうというわけです.

─卒業論文はどのようなテーマで書かれたんですか.

槇文彦 丹下先生が取り組まれていたオフィス論の序説のようなものといっていいかもしれません.友人の石川忠志君といっしょに,オフィスの形態,プランニングから賃貸の状況まで,丸ビルなどいくつかのプロトタイプとなるオフィスを選んで調査をしました.


神話化する丹下健三

槇文彦 広島平和記念堂における網膜透視の話とか,広島のピースセンターがピース(煙草)の箱の裏に描かれた小さなスケッチから始まった,というような話が神話化していく中で,丹下先生はわれわれ学生のアイドルになっていきました.

─前川國男さんとか坂倉準三さんとかコルビュジェのお弟子さんたちと代わる世代として丹下先生が出てきたということですか.

槇文彦 そうです.
前川,坂倉,そして吉村順三さんとも違う新しい世代が登場してきたという感じでした.当時の若い学生にとっては岸田,谷口ではなく,東大の丹下健三,早稲田の武基雄という時代ですね.たった2〜3年の間に世代の新しい台頭があったという感じです.

─堀口捨巳さんはどうですか.

槇文彦 堀口さんは非常勤講師として授業をもっておられました.3年の意匠の授業で,課題は茶室の設計です.

─意匠とはどういう授業なんですか.

槇文彦 当時,一般の講義は午前中にあり,午後は週に何回か製図の授業がありました.ただ,それ以外に特別なワークショップというかセミナーみたいなものがあったんです.
このワークショップは設計に限ったものではなく,2スパン2階建てのコンクリートの学校について構造計算をし,モーメント図を描く,さらにそれをもとに配筋図を描く,なんていうことまでやらされました.

そのセミナーのひとつが意匠という授業で,堀口先生による茶室の設計だったんです.堀口先生の講義は毎年,茶室と決まっていました.毎週図面を講評するというものではなく,1学期のうちに1枚図面を提出すればいいというものでした.ですから,堀口先生という方がいらっしゃるということは知っていましたが,堀口先生の初期の作品は何かとか,そういう関心は持たずに講義を受けていましたね.

─卒業した後,アメリカに行くまでの数カ月の間は,丹下研の大学院生として過ごされたんですよね.

槇文彦 最近まで大学院に進学したものだと思い込んでいたのですが,実は入ってはいなかったんですよ.
最近,ヨーロッパでライセンスを取得するために,東京大学から学籍簿を取り寄せましたら,大学院には入っていないことになっているので驚きました.ただ研究室での扱いはいっしょでした.大谷さんとか沖種郎さんとかがいる,学部生のときにはあまり入れなかった奥の部屋に行けるようになりましたからね.


科学的なアプローチを求められる

槇文彦 卒業設計が終わってから6月くらいまでの間,アトリエの一員として外務省のコンペを朝から晩までやっていました.特に僕が担当していたのは,開口部のブリーズ・ソレイユです.
僕たちは,季節や時間によって入射角はどう変化し,太陽光はどのくらいの時間,部屋の中に入ってくるかなどを調べていたんですが,その結果,南側は圧倒的に水平ルーバーがきいて,縦ルーバーは西でしか有効でないということ等がわかりました.当時は,そういう資料があまりなくて,外国の雑誌を参照したり,小木曾定彰先生がそういった研究をされていたので,先生の研究室へ聞きにいったりして調べました.
このように設計に関しては,徹底的に科学的なアプローチが求められましたね.ほかに印象に残っているのは議会棟部分です.ここは丹下先生の聖域だったようで,地位の高い大学院生しか携わることができませんでした.特にシェル状の屋根の形には執着されていたようです.

─ルーバーというか,庇を出すことに関して議論があったというご記憶はありますか.多くのモダニストがルーバーや庇をあまりつけないのに対して,丹下先生は独特の感覚で処理されるように思いますが...

槇文彦 僕は,香川県庁舎あたりで結実する庇空間に対する意識がこの外務省のコンペ案にも現れていると思います.この後に出てくる東京都庁がミース的であるのに対して,この段階における庇は,これはコルビュジェのアルジェリアの計画の系列に近いかもしれませんね.また,ほりの深い造形も,マルセイユにいたるコルビュジェの影響がもしかしたら入っているかもしれません.

─丹下先生は,1951年のCIAMの大会の際にマルセイユに立ち寄られ,ユニテを見ています.ただ,そのときはピロティが建ち上がっただけの段階だったようですね.

槇文彦 丹下先生のピロティというのは独特なものだと思います.
外務省ではコアに水平力を担保させているので,外側の柱は軸力だけですみます.そのため柱は細く軽いものになるのです.
こういった議論は,この時期,研究室で活発に行われていました.丹下先生にとってコアというのは,居住空間や執務空間の確保といった平面計画の話ではなかったのです.構造は設計における重要な要素であり,これも丹下先生特有の合理的アプローチの一環だったということがいえるのではないでしょうか.

─きれいなコアシステムというのはというだけではなく,かならずデザインにうまく生かすというのは,丹下先生独特のものですね.

槇文彦 必ず理屈がついているんです.最終的な決定の段階では視覚的なものが優先するんですが,プロセスは非常にラショナルですね.
構造であれ,アーバンデザインであれ,理性で説明することができるプロセスをずっと追っていくんです.最後は感性で処理されることがあっても,プロセス段階には厳密なアナリシスがあるんですよね.

─槇さんが携わられたブリーズ・ソレイユに関する調査も,そういった理由によるものですね.

槇文彦 原理的に調べ,それでうまくいくなと思ったらゴーサインが出るわけです.そして,それが彼の合理的な美学にあっていればそのまま使われるし,そうじゃないものは最後の段階で変形させてしまう.しかし,変形させるということが悪いことだとは思いません.
池辺陽さんのように,最後まで理性を信奉し科学主義を貫き通すと,妙に不器用な感じになってしまうことが往々にしてあります.ただ丹下先生は,全面感性でやっていく村野藤吾さんなんかとも明らかに違っていました.われわれ東京大学の学生は,丹下先生のそういうアプローチに全面的な信頼を寄せていたということがいえると思います.


マイスターとは異なる設計手法

─若い人たちの共感を読んだ理由としては,ほかにどのようなことが考えられますか.

槇文彦 丹下先生がマイスターではなかったということも理由として挙げることができるのではないでしょうか.
いわゆるマイスターというのは,自分でスケッチを描いて,アシスタントに渡して,それを発展させるというかたちで設計を進めていきます.コルビュジェも,そういう意味ではマイスターでしたが,丹下先生というのは,構造の問題,表現の問題,それから設備の問題,あるいはアーバンデザインの問題など,多面的に関心をもたれていました.そういうものの集約として建築が最後に現れるという考え方をもっていたようです.当時話題になっているのは何でも使おうということかもしれません.いい意味での貪欲さがあり,その意味で村野さんや,吉田五十八さんに代表されるようないわゆるマイスターとは違っていましたし,そこが若い人にアピールになったのではないかと思います.

─それは近代的なアプローチと呼んでいいものなのでしょうか.

槇文彦 というか,ヨーロッパにもないようなアプローチですよね.
ヨーロッパではみんな建築家はマイスターです.ライトもコルビュジェもそういうやり方はしていません.ですから,どこでそういうアプローチを体得し実行されたかというのは,逆に僕が聞きたいところです.『ミケランジェロ頌』などを読んでもすぐにわかることですが,アーティストとしてのホットな体質はもっておられる.しかし,いきなり俺はこうしたいんだと,前面に出さないのが丹下先生の特徴だったと思います.
何かをいつも探し求める非マイスター的な態度,そのプロセスが非常にエネルギッシュだったんです.それは多くの人がいっしょになって取り組まなければいけない問題であり,丹下先生の役割は,そのプロセスの最後に自分が結論を出し,まとめることであるわけです.
建築を取り巻くものにはいろいろな要素があります.環境,構造,都市,あるいは意匠など,さまざまな領域に渡って均等に関心をもち続け,それに対してテーマを設定し ,そこで理論的な裏づけを取りながら建築をつくろうというフィロソフィーが,万博にいたる頃までの丹下研には,絶えずあったと思います.

─それは槇さんがアメリカに行かれる前から,丹下先生の特徴として感じていたことなのですか.

槇文彦 そう思っていましたよ.丹下先生しかやっていない刺激的なアプローチがあると思っていました.

─アメリカには,こういう丹下先生的なアプローチをする人はいましたか.

槇文彦 唯一,エーロ・サーリネンがそうだったのではないでしょうか.おそらく丹下先生も,サーリネンをそうとう意識しておられたのではないかと思います.
サーリネンが絶えずひとつのスタイルに拘泥しないで,エクスペリメンタルなことをやっていた.お父さんがマイスター的だったにもかかわらずです.そういうものに共感を覚えていたのではないでしょうか.

─槇さんがハーヴァードにいらっしゃった頃のアメリカで,注目を集めていた建築家は誰だったのでしょうか.

槇文彦 1950年代のアメリカで,ひとつつくるごとに注目をあびる作家というと,ひとりはこのエーロ・サーリネン,もうひとりはポール・ルドルフでしょう.ルドルフはフロリダで住宅を始めるんですが,次第にパブリックな建築,たとえばウェルズリー・カレッジのジュスウィット・アート・センターとか,イェール大学建築芸術学部棟を設計するんですが,そのたびにフレッシュなアプローチを試みていました.フロリダでつくっていた住宅は,モダニズムを基本にしながらもどこかリージョナリズムへ傾斜していく,ちょっと軽い感じのモダニズム,ジュスウィット・アート・センターではゴシック風な要素が出てき,イェールにいくとライト的というかオーガニックというように作風が変わってきます.サーリネンもいろいろなことを試みるわけですし,彼らの建築をつくる姿勢というのは,当時の丹下先生の性向と近いものだといえるのではないでしょうか.

─これは穂積信夫先生にお聞きしたことなんですが,サーリネンがディア・カンパニー本社を設計するときにお忍びで都庁の視察に来て,穂積先生が案内されるんですが,そのとき丹下さん本人には会わなかった.

槇文彦 お互いに,いい意味でのライバル意識をもっていたんですね.

─ルドルフも香川県庁舎をわざわざ見にきたようですね.庭のはつったコンクリートの壁面を見て,イェール大学の建築芸術学部棟に使ったと聞いています.

槇文彦 今でも世界的な建築家が,お互いの動きを探りあっています.それとあまり変わらないように思いますね.ただ役者が違うだけです.ヨーロッパというのはご承知のように,それこそ何世紀にも渡って情報が行き来し,お互いの交流があったわけですが,それと同じ土壌にやっと日本が立つことができるようになったということの表れだと思います.
(『新建築』1999年1月号掲載)



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