坂倉準三のパリ万博日本館に感動する/グロピウスとアメリカと/伝統を伝える個人個人のDNA

この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

これまでの連載はこちら


「なるべく空間をホモジニアスにしたほうがよいものができます.
目障りなものはなくしたほうがよいのです.」




坂倉準三のパリ万博日本館に感動する

─清家先生は1918年のお生まれですから,1913年生まれの丹下先生の少し後輩になりますが,戦前のちょうど同じ時期に建築を学ばれたということで,その時代の建築界についてお話をうかがいたいと思います.まず,清家先生は1938年から1943年にかけて東京美術学校と東京工業大学で建築を学ばれますが,その頃,モダニズムはすでに日本に入ってきていたわけですが,たとえばバウハウスとコルビュジエは,同じ系統として見ておられたのでしょうか.

清家 モダンデザインということからいえばどれも同じに見ていました.当時,雑誌で見ていちばん感激したのは坂倉さんのパリ万博日本館でしたね.


─前川さんの岸記念体育会館はいかがですか.何か話題になったこととか,覚えておられますか.

清家 木造で柱を2本吹寄せにしたりしてあって感心しました.南京下見を使ってあったりして,ちょっと浜口隆一さんの自宅と似ていますが,浜口邸も丹下さんの担当ですか?


─岸記念体育会館は丹下さんが担当されたものですが,浜口邸は前川事務所がやっていたプレモスというプレハブで建てられています.ところで,前川さんの自邸は戦前に建てられましたが,ご存知でしたか.

清家 戦前はまだ学生で,そんな偉い先生のご自宅に行く機会なんてありませんから,知ったのは戦後になって雑誌に発表されてからですね.実は学生の頃,坂倉さんのところにはうかがったことはあります.上げ下げ窓のある西洋館です.あの近くに「龍土軒」というレストランがあり,東京工大の学生の頃に呼んでいただきました.当時,坂倉事務所には柳宗理さんがいて,私の東京美術学校の同級生の村田豊や袴田誠が入っていましたし,前川さんの事務所には寺島成和が入っていました.


─前川さんのお宅には行かれなかったけれど,坂倉さんの自邸には行かれたんですね.戦後,来日したグロピウスが清家さんの作品を見て感激して,その後アメリカのグロピウス事務所TACに招待されて行かれるわけですが,戦前はグロピウスについて関心はおありでしたか.

清家 当時,坂倉さんの事務所とお住まいは隣接して,赤坂檜町10番地の同じ敷地にありました.前川さんの事務所は銀座で,ご自宅は大崎にありました.両大先生の私生活と建築家としての公生活への姿勢の違いでしょうか.
グロピウスのTACはバウハウスがそうであったように,大学院のようなところがありましたね.


─そうするとコルビュジエ,ミース,グロピウスといった人たちで,先生がお好きな建築家は誰でしたか.

清家 バウハウス関係とかコルビュジエとかの作品集は丸善で手に入れて見てはいましたが,別に理由もなく特に「好き」というほどではありませんでしたが,ミースは好きでしたね.


─コルビュジエの作品集は有名ですが,ミースの情報などは何から入手されていましたか.

清家 当時,1933年ドイツはヒットラーの天下になっていてドイツの雑誌にミースの作品は掲載されなかったはずですから,おそらく米英の雑誌で見たんだと思います.


─戦争に突入して,ヨーロッパのモダンデザインの世界が解体されていくわけですから,たとえばヒットラーが政権をとってバウハウスが解散させられてミースがアメリカに亡命したりといった,その辺の情報は入ってきていたんでしょうか.

清家 日独伊同盟の枢軸のおかげで,全然伝わってこなかったわけではありません.『CASA BELLA』や小池新二さんのやっていた『国際建築』などの窓口はわずかにあったのです.


─戦前に「大東亜記念造営計画」とか「在バンコック日本文化会館」とかのコンペがあって,モダニズム系の建築家がこぞって参加するわけですが,先生は参加されましたか.

清家 出してませんが,谷口先生が出されました.私はその前に海軍に入ったから,案の内容についてはまったく知りませんが,美校の後輩の石川譲一君が谷口先生の製図を手伝っていましたね.


─戦前の段階で,丹下さんの名前はどういうようにご存知でしたか.

清家 丹下さんについてはとにかくエライ人だという印象がありましたね.


─それはふたつのコンペに入選したことについてでしょうか,それとも前川事務所で担当した作品からでしょうか.「大東亜記念造営計画」では富士山の麓に伊勢神宮のようなものを提案され,「在バンコック日本文化会館」では寝殿造りのような案を出されてますが,エライ人というのはその辺のデザインについての評価だったのでしょうか.当時,丹下さんは日本工作文化連盟の準会員の立場で機関誌『現代建築』に「ミケランジェロ頌」を発表していますが,これは読まれましたか.

清家 拝見しました.よくわかりませんでした.よくわからないというのは感激に結びつきますから,あるいはその辺からの評価だったかもしれません.




グロピウスとアメリカと

─戦後しばらくして清家先生が東工大に戻られ,設計活動を開始されますね.グロピウスが1954年に来日したときに先生の作品をいくつか見学され,日本の若手建築家のホープと絶賛してアメリカに招待するわけですが,おそらく「斎藤助教授の家」が目的の見学だったと思うわけですが,グロピウスは『新建築』か何かで調べてきていたんですか.実際に見てどんな印象をもたれたようですか.

清家 雑誌の写真で見て,日本の現代建築ではこれが見たいと候補を絞ってきたみたいですね.突然,案内役の浜口さんから電話が大学にかかってきて,実は大学と家は非常に近くて,たしか自転車で通っていたと思います.それで「じゃ,僕が案内します」といって,急いで帰り「斎藤助教授の家」と「宮城教授の家」「私の家」が並んで建っているので,ついでに3軒とも見てもらったんです.まず「斎藤助教授の家」を見てもらい,そこで簡単にお茶を出し,次にちょうど宮城さんが家にいたので,それを見てもらい,さらにまだ工事中だった私の家を見てもらいましたが,何をどのようにいっておられたかは,あまり記憶がありません.ただ,東洋と西洋を結びつける何かがあるというようなことが,その日の日記に書かれていたとグロピウス夫人のイセさんの原稿に書かれています.


─それが縁で招待されてアメリカに行かれるわけですが,清家先生はどちらかというと日本でも戦前からモダンな生活をしておられた.それにもかかわらず,日本とアメリカのギャップはとんでもないものであったと書かれています.建築も含めて,そのギャップとはどのようなものでしたか.

清家 まず,私の当時のアメリカのビザはH1というもので,これは向こうでも敬意を表してもらえるビザでした.紹介されるときも,まだ助教授なのに「彼は東京のプロフェッサーである」と紹介してくれて,ちょっと照れくさかったことを覚えています.


─アメリカでいろいろな建築を見られたと思います.ミースやグロピウスやブロイヤーなどの作品を実際に目にされていかがでしたか.

清家 日本の木造建築などと比べて,建築としてはたいしたことはないと思いました.


─ミースの作品は何をご覧になりましたか.

清家 ミースのシカゴの作品は,その次の1959年に行ったときに見ましたが,1954年にギャランティをいただいて渡米したときはほとんど何も見てません.というか,何をしていたかというとTACのスタッフの連中とやれスキーだ何だと誘われて一緒に行ったりしていましたが,とにかく私は英語がよくわからなかったので,あまりうまくコミュニケーションはできていなかったと思います.でもいろいろ見学させてくれました.あるときバーモント州で木造のプレハブでやろうとしていたグロピウスの仕事が,州ごとのユニオンの違いで駄目になったことがありました.他州でつくったものをもち込むことが許されない,ということでアメリカでは州が違うとプレファブリケーションが成立しないということを知りました.


─グロピウスの作品は何を見られましたか.

清家 グロピウスの自邸ですね.大きなガラス窓があったり,可動のシャッターがあったりして,とにかくびっくりしました.コルビュジエの「住むための機械」というのはこういうものかという気がしました.英語でいうと「The house is a Machine for Live in」で,最後の「in」に大きな意味があります.ところが日本語では機械が最後にきて強調されますが,本当は「live in」に重要な意味が込められているんです.
もうひとつ技術革新がずっと続いていることもわかりました.独立戦争でアメリカがイギリスに勝ったのは,技術革新を続けていたからでしょうね.日本が戦争に負けたのも,技術に負けたんだと実感しました.特に海軍でいろいろな設備を担当していましたから,まず設備の違いに驚き,いまでいう工業デザイン,いわゆるIDのレベルにも驚きました.




伝統を伝える個人個人のDNA

─アメリカで体験されたことが,帰国後の作風に影響がありましたか.

清家 そりゃもちろん,ずいぶんと影響を受けました.特に「Industrialized Prefablication」というか,そういう考え方に強く影響されました.当時,トヨタ自動車と新扶桑金属といっていた住友金属工業と共同で挙母市,いまの豊田市ですが,そこで東工大の田辺平学先生のお手伝いをして,工業化住宅の実験をしました.


─渡米の前と後で大きな心境の変化はありましたか.また美学的にはいかがでしたか.

清家 影響は受けましたが,前と後で特に断絶はありませんでしたね.それほどたいした変化はなかったんだと思います.


─戦後も「広島平和記念聖堂」とか「広島ピースセンター」など,いくつかの建築のコンペがありましたが,これらに清家さんは参加されましたか.

清家 いいえ参加してません.


─丹下さんは,この広島ピースセンターで,柱・梁をコンクリートで,しかも桂離宮を意識したという非常に伝統的な形でつくっていきます.実は少し前に清家先生の処女作である「森博士の家」を,私自身は2度目でしたが見る機会がありました.床の間風のところに銀箔が張られているのを見て,清家さんも桂離宮を意識しておられたんだ,と改めて気が付いたのですが,その辺はいかがですか.

清家 実は森博士の息子さんが色彩のことを研究しておられ,いろいろ色彩の問題を話し合ったことがあります.桂離宮の松琴亭の場合は銀箔と青色の市松模様というか十字架のようになってます.そういう表現は森さんの家に向かないと思い,銀箔を全面に張りました.


─丹下さんがコンクリートの柱・梁の構造で伝統を表現し,清家先生は木造でそれをごく自然に表現されますが,伝統への取り組み方の差というか,生き方の差のようなものを感じられたことはありますか.

清家 グロピウスがきたときも伝統は議論の的になりましたね.伝統というのはひとりでにそうなるものだと思います.
実はアスペンの会議に出席したときに,会場から伝統についての質問がありました.実は質問したアメリカ人のほうがよく知っていて「伊勢神宮の棟持柱は実際は力を受けていないが,あれは日本の伝統なのか」という質問でした.伝統というのは先祖から受け継いでいるものなんですね.私も棟持柱のある家を建てましたが,神戸の私の作品の場合は力を受けもっていて,今度の震災にもびくともしませんでした.だから伝統には忠実にしておくことですね.


─『新建築』誌上で川添登さんが編集長で伝統論争に火をつけて展開し,広島のピースセンターや丹下自邸を取り上げ,白井晟一さんが縄文的なるものという発言をするわけですが,そうした伝統論争に関しては清家先生はどのようなご意見をおもちでしたか.

清家 伝統というのは,その人個人個人の中に身にしみてもっているものだと思います.いまでもそう思っています.意識しようとしまいともっているもので,DNAの一種ですよ,きっと.
(後編に続く,『新建築』1998年9月号掲載)



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『丹下健三』

\2002年に限定発売された『丹下健三』(丹下健三,藤森照信 著)の再版プロジェクトが進行中/ 本マガジンでは,『丹下健三』の魅力を伝える記事を更新していきます!
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