note丹下健三

バックミンスター・フラーのような川合健二/「モダンデザインと木」という日本独自のテーマ─「磯崎新氏が述懐する丹下健三②」前半

この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

これまでの連載はこちら



目次
●バックミンスター・フラーのような川合健二
●「モダンデザインと木」という日本独自のテーマ
●岸田日出刀の神道的透明空間に対する美意識


バックミンスター・フラーのような川合健二

─丹下研究室(以下,丹下研)における構造の問題というのはよくわかるのですが,設備の問題はどうもはっきりしません.

磯崎 川合健二さんの物語というのが僕は一番やっぱり面白いと思いますよ.


─それについてはあまり覚えている人がいないんですよ.浅田孝さんが連れてきたのは確かなようですが....

磯崎 浅田孝さんから聞いた話が主になりますが,あの人は突然東大の丹下研に現れて,今までの空調システムは全部ダメだ,やるんだったらヒートポンプにしろと,演説をぶったそうです.
ここにアメリカのカタログがある.日本ではまだ使われていないけれど,今までのシステムに較べて合理的なんだというわけです.
それに浅田さんが飛びついた.おそらく丹下さんを説得して,東京都庁舎を川合健二さんのアイデアでやろうということになったんですね.しかし,やってしばらくしたらわかったんですが,全部輸入部品を使ったため,故障したら代替部品がすぐには手に入らないとかいう問題が起こってしまった.バックアップシステムなしでつくってしまったんですね.理論的には間違っていないけれど,実際に毎日使うとなると問題が起こってくる.そういうことがたびたび起こって,結局はその後,井上宇一さんが全面的に改造をやらされました.川合さんのシステムは消えてしまいました.さらに旧都庁舎の場合,31mの高さ制限があるので階高が非常に抑えられていて,天井裏が過密なんです.そんなことすべてが川合さんにとっては裏目に出てしまいました.


─川合さんは関西大学の経済を出た貿易商,つまり文化系の人です.いくら技術に対する興味があって,アイディアをもっていたとしても,川合さんひとりでは具体的に何もできなかったのではないでしょうか.

磯崎 もうひとり,工業高校の校長さんみたいな人がいつも横についていました.この人はおそらく図面を描く純粋なエンジニアだったんじゃないかと思うんです.いつもその人を連れて歩いていましたね.この人と川合さんがどういう関係かは知りませんが,なんでもこの人は本職は高校の先生だと聞いています.


─川合さんは,なんでもやるバックミンスター・フラーみたいなところがありますね.ほとんどの提案において,大筋はあたっている.川合さんが提案したものというのは,当時はつくる技術がなかったけど,現在では実現しているものが多いと,大谷幸夫先生がおっしゃっていました.アルミダクトなんていうのも当時,川合さんが提案したものだとうかがっています.

磯崎 先見の明はありましたね.晩年も技術には興味があったようで,最後に会ったときも,原子力発電とか大規模火力発電はよくなくて,中規模の発電所を多くつくることが都市エネルギーにとって有効であるという話を延々と僕は聞かされました.また,それにも増して驚いたのが,それに関するカタログがすべてそろっていたことです.


─当時の丹下研の中で,構造というのは,明らかにデザインや思想の問題と密着な関係をもっていた.それに対して設備は,どのような位置づけがなされていたのでしょうか.

磯崎 設備に関して丹下さんは,ほとんど関心をもっていなかったと思いますね.都庁舎の場合の縦ルーバーの問題では,それによって外部騒音や日照を制御できるということをいっていますが,それはデザインの正当性を論じるためのものであります.



「モダンデザインと木」という日本独自のテーマ

─磯崎さんは今治市庁舎・公会堂(『新建築』1959年9月号掲載)にもかかわられていますね.

磯崎 香川県庁舎が終わって,すぐに設計が始まったもので,僕も最初からかかわっていました.


─どういうことがテーマだったんですか.

磯崎 近代建築における日本的表現というテーマは,香川県庁舎である程度の成果を上げることができたと考えていました.ですから,今治市庁舎・公会堂では別の方向を,つまり新しいテーマを模索していた.そこで出てきたのが折板構造です.本当は側面にリブさえないエッジのシャープな外壁を思い描いていたんですが,コンクリートの板だけじゃだめだ,先端に荷重がかかるんだからちょっとでも柱がないと,ということで,それで細い柱をつけたんです.今だったら折板だけでもできるんですけど,当時はそうはいきませんでした.いずれにしても,コンクリートの構成を線から面に転換させようというのが,ここでの目標でしたね.


─今治市庁舎・公会堂では,内壁に土壁みたいなものを用いています.土とおそらく和紙を混ぜたものかと思いますが,丹下さんの作品としては珍しい.これはどのような経緯で用いられることになったんですか.

磯崎 吸音ですね.当時,このような壁材料が新製品として出て,吸音材も兼ねて使用しました.うまく利いていたかどうかはわかりませんが....藤森さんも土壁はよく使われていますね.


─僕の場合は実用としてやっているわけじゃなくて,思想としてやっているんですが....
丹下さんはこの時期まで木,特にスギを大量に使っています.香川県庁舎にしても,天井とか階段にわざわざ木を使う.それがある時期にパタッと消えてしまうんです.相当大量の木を使っていたにもかかわらず,途中でなくなりますよね.あの時期における木というのは,丹下さんにとって,あるいは時代的に,どういうものだったのか,日本の伝統の問題と関係があるのですか.

磯崎 これは家具デザイナーである剣持勇さんの存在とも関係していると思います.剣持さんには香川県庁舎などで,家具デザインをお願いしていますが,彼はある時期から集成材に非常に関心をもち始めるんです.剣持さんの作品の中に集成材をくりぬいてつくった椅子があって,当時の横綱,柏戸の名前がつけられていたと思いますが,そういうイメージと,あの当時の伝統論から民衆論という動きが重なっている.ですから香川県庁舎では,木という素材をコンクリートと同じくらい太く使っているんです.


─いわゆるモダニズムが求めるような工業製品ではないんですよね.

磯崎 そうです.集成材の技術が高まったことで可能になったことだと思います.


─おそらくイサム・ノグチの影響もあると思いますが,そもそも日本には,アントニン・レーモンドに始まって,前川國男やジョージ・ナカシマなど,モダンという形式の中でどうやって木を使うかという命題が脈々とあったのではないか.そしておそらく,モダンデザインと木というテーマは,世界で日本人が主に取り組んだテーマなのではないかと思うんです.
軽井沢にあるレーモンドの夏の家(現ペイネ美術館)あたりから始まる木の流れは着実に丹下さんに,人脈的にも,デザイン的にも受け継がれている.しかし,それをちゃんと議論しないまま,レーモンド自身も捨てていくし,丹下さんも捨てていきます.前川さんの場合,戦前と戦後はすぐはやっている.しかし,鉄筋コンクリートができるようになると木を捨ててしまいます.どこでも議論されないまま,モダンデザインから木が消えてしまうんですよね.

磯崎 それはかなり重要なテーマだと思いますね.僕は岸記念体育会館(1940,岸田日出刀監修/前川國男設計/丹下健三担当)が日本における近代建築の「日本的なもの」の達成の最初だと思っているくらいですから,これはとことん木造です.


─丹下研の場合,木のピークは香川県庁舎あたりにあったように思えます.つまり磯崎さんがいたときにピークを迎えそして消えていくんです.このことに対しては議論があったんですか,あるいは気づいたら消えていたという感じなんですか.

磯崎 さきほども剣持さんの話をしましたが,僕の中で木は家具とのつながりが大きいんですね.つまり仕上げ材としての木なんです.集成材と成型合板,このふたつのテクニックがおそらく50年代の後半に日本で使えるようになった.いわゆる数寄屋大工や普通の民間の大工がやるような技術を用いずに,木を使用するということですね.



岸田日出刀の神道的透明空間に対する美意識

─旧東京都庁舎の後ろに超高層の都庁の別館を建てるという計画がありました.磯崎さんが担当していらっしゃいますが,これはどういう経緯で計画され,また,どうして実現しなかったのでしょうか.

磯崎 東京都庁舎(『新建築』1958年6月号)ができたときから,あの一帯が再開発だったということもあって,これが完成したら次は超高層だということがいわれていたんです.完成した都庁舎は日本の1950年代のもっとも重要な建築作品のひとつだと考えてよいと思いますが,この作品,都庁の役人方にはいたって評判が悪かったんです.
実際,使われ方も悪く,適正密度の倍くらいの人数が入居していましたし,31m制限のため階高を圧縮していました.また,川合健二さんによる日本で最初のヒートポンプの空調システムも,その効用が裏目に出てしまっていた.そのため都庁としては,丹下さんにはもう頼みたくなかったようなのです.それで都庁舎の審査員のひとりでもあった岸田日出刀さんに,都庁から今度はあなたがやってくれということをいってきたみたいです.そこで岸田さんは誰をスタッフとしてやるかということを考えたんですね.
僕は岸田さんからある日呼び出されまして,とにかくお前,都庁の役人と外国をまわってこいということをいわれたんです.どうもそのときは,海外視察の共をさせて,そのまま担当に横滑りさせるという腹積もりがどうもあったようです.丹下さんからは,行く直前に,お前は丹下研究室が派遣するんだから,都庁とは関係ないけれど,都庁の人について行きなさいということをいい含められたのです.丹下さんは僕を研究室に釘づけにしたんですね.
丹下さんはこのときとても機嫌が悪かったんです.丹下さんにとっては,何でお前は自分の研究室に属しているのに岸田さんのいう通りにするんだ,ということなのでしょうね.だけど,丹下さんは岸田さんの配下なわけですから,その配下の僕が...,ということで,ややこしいわけですよ.まあ,すべては憶測にすぎませんが....


─岸田さんは,配下の配下を使うということに対して,特に気にされているということはなかったのでしょうか.

磯崎 いや,それはわからない.ただ,これは僕の考えですが,岸田さんのもっている美学に関係がある事柄だと思うんです.岸田さんという人は,まさに神道的な透明空間というものに対する美意識をもっている人です.丹下さんの戦前の作品である大東亜記念造営物のモチーフは伊勢神宮,在バンコック日本文化会館は京都御所,そしていいすぎかもしれませんが広島のピースセンターは桂離宮.ですから広島くらいまでは,確実に丹下さんの作品に岸田さんのイメージしている建築空間があった.つまり,そこまでの丹下さんの作品は,岸田好みだったということができます.
倉吉市庁舎も広島の流れですし,津田塾大学の図書館も典型的な岸田好みです.それが民衆論という議論が出てきて,香川県庁舎なんかができてくる.あのへんから雲行きがおかしくなったと岸田さんは感じていたんじゃないかと思うんです.弥生的というか貴族的透明空間に対して,川添登さんなんかが中心となって全面的な批判を加えたわけですよ.それに対する丹下さんの応答は,民衆論の丹下さんなりの再解釈でした.倉敷に行き着くこの流れに丹下さんはひとつの選択を見い出すんです.
でもそれは岸田さんがずっと評価してきたものではないわけです.もはや丹下さんは,自分のいうことを聞かないような状況になっていると岸田さんは感じていたんだと思います.そのあたりの状況と,都庁の考え,そして僕の存在なんかがあって,さっきのようなことになったのではないでしょうか.
実際に絵として残っている丹下研の計画案は,そういった都庁の動きに対するカウンタープロポーザルです.ひそかに動いているものに対してカウンタープロポーザルをやっておいて,抑えるということであったんだろうと思います.図面を引いていたのは僕と黒川紀章さんくらいだろうな.突然ある日,模型をつくれということになって,何だかあっという間につくっちゃったという記憶がありますね.
(『新建築』1998年12月号掲載)




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