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戦災復興計画と文教地区計画/戦前と戦後,ふたつのオリンピック/大阪万博とエコロジー

この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

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戦災復興計画と文教地区計画

─丹下さんをはじめ,何人かの建築家が戦災復興計画に携わっていますが,誰をどこの担当にするかといったような割り振りは誰が行ったのですか.

高山 あれはね.戦後あった国土局というところの伊東さんという局長が割り振ったんだよ.建築出身者で土木の人よりももう少し頭の柔らかい人だった.戦争の関係で元内務官僚の都市計画とか,土木,造園なんていうことにちょっと鼻の利く人がいなくなっちゃって,建築の人を入れてやってみようということになった.


─高山さんは長岡,丹下さんは広島,前橋,武基雄さんが長崎ですか.

高山 建築家は,お米のあるところに行きたいとかいっていたけれど,つまりは郷里の復興をやれということだろう.僕が長岡だったのも,やっぱり昔,僕のおやじが長岡にいたからで,それ以外にたいした理由なんてないんだ.


─それは最終的に実現するんだという感覚を皆さんもっていらっしゃったのでしょうか.

高山 全然ないよ.予算がないんだもん.でもみんな案は出したよ.自治体に案出して,だけど予算もないんだから,しょうがないよ.ただ広島の計画だけは別でね,戦前から進んでいたんだよ.100m道路などの計画もそのときからあった.


─復興計画というのは,まず何をするんですか.

高山 とにかく現地に行って,市役所の人と歩いて.


─文教計画は石川栄耀さんが.

高山 そう.石川さんが東京都の建設局長になったからね.ただ,単なる復興計画では面白くない.戦争やって負けたんだから,今度は文化だ,教育だということになって,東京大学の南原繁総長,慶応大学塾長の奥井復太郎さんあたりと相談して,まず文教地区という名前をつくってやったんだ.


─大谷幸夫先生は,大学院生時代に文教地区の計画に携わっていて,自分たちが描いている計画に根拠がないことが嫌だったといっていましたが,これも実現する見込みのあまりない計画だったんですか.

高山 そう.石川さんも土木の中では,建築的,文化的な人で,ロマンティストだったんだと思う.だけど土木の中で力のある人では決してなかったんだよ.だから実現の見込みは全然なかったね.


─文教計画は,先生を中心に,丹下さんとか,池辺陽さんだとか,東大の後輩を使ってやられるわけですが.全体の配置なんかは誰が考えたんですか.

高山 基本的には,もともとあった既存の道路に手を入れるかたちで進んでいますが,ただ,ところどころ絵にならないようなところは丹下君などが手に入れています.大きな製図板で描いて,丹下君がその上に乗ってね.


─施設計画はどうですか.

高山 丹下君に上野の水族館があるだろう.あれはこの文教計画の一端だったんだよ.この計画を見た水族館の園長が丹下君に頼んだんだよ.できなかったけれどね.


─関野先生に聞いた話ですが,丹下さんは高山先生の研究室に戻りたいということを関野先生に相談されたというのです.それで関野先生は大同に行っている高山先生に手紙を書いて,そのとき高山先生は丹下さんに会われるまでもなくいいよといったということですが,大学院に行くというのはそんな感じだったのですか.試験なんかはなかったのですか.

高山 何にもないよ.何も教えないんだから.


─丹下さんは高山先生の下でどのようなことをやっていたのですか.

高山 戦前はぶらぶらだな.


─話は飛びますが,丹下さんを海洋博のときに施設の設計者に選ばれなかったですね.

高山 沖縄の復興のためにやっているのに,丹下君じゃあ,金銭的な面で沖縄県に余計に負担をかけてしまいそうでね.


─文教計画の後に東京都の公開コンペがありましたね.

高山 東京全体は無理だとしても,もう少し小さな地区で道路計画とか建築とかいったものを総合的に計画しなければだめだという思いがあったんだよ.それを石川さんにいったら,じゃあコンペにしようということになって,岸田さんを審査委員長にしてコンペをやったんだ.上野,新宿,銀座,深川から.新宿と深川で祥文君が1等になった.深川は下町だから,洪水があるっていうので,ピロティつくったりして,コルビュジエふうの.惜しい人を亡くしたね.
祥文君は博士号をとるために,いやいやながら火事の実験なんかやらされてね.防災実験.丹下君だって,統計かなんかで学位取ったんだよ.コーリン・クラークなんかを研究しながら,渡辺定夫君に手伝わせて交通論に取り組んだんだ.


─戦後,スラムのクリアランスの問題で,丹下さんや東工大の清家清さんなんかが銀座にショッピングセンターをつくっていますが,それはGHQの命令だというお話を聞いているんですが....

高山 露天の人が店の前に水をまいていたら,たまたまGHQの人に引っかかっちゃって,あれを取り壊せということになったんだな.GHQが東京都に予算をつけさせたんだよ.




戦前と戦後,ふたつのオリンピック

─戦前,岸田先生が幻の東京オリンピックのために,ベルリンに視察にいかれて,帰ってきてから『ナチスと建築』というナチス建築の批判の本を出されて,それで政府に睨まれました.
あの一件で岸田先生は人柄まで変わってしまわれたと関野克先生がおっしゃっていました.戦前のオリンピック計画で,岸田さんがベルリンまで視察にいっていながら,実際のオリンピック計画に携わらなかったのは,やはりそういった背景があったからなのでしょうか.

高山 あれは結局怒られたんだろう.軍部に.あの時分,何ていっても軍部の力が凄かったからね.紀元2600年を記念して東京にオリンピックを誘致しようとしたときは,内田先生が文部省から頼まれて,岸田先生なんかを視察にやったんだよ.


─岸田先生は,シュペーアに会わないとか,あけすけにナチス批判をしているんですが,結局そのあたりが原因としてあったのですね.関野先生は,直接岸田先生から聞いたわけではないですが,あれ以降本気で設計をしなくなったというんですね.それまで純粋なデザイナーだった人が設計を本気でしなくなり,悪くいえば遊ぶようになったというのです.

高山 岸田さんは,27くらいの歳にオットー・ワーグナーで博士号を取ったような人で,コルビュジエとかバウハウスといったようなものにこだわらなかったんだよ.コンペはずいぶんやっていたでしょ.折衷主義みたいなこと.


─1964年のオリンピック計画は,戦前のオリンピック計画を踏まえているのですか.

高山 戦後のオリンピックでは,その施設特別委員会の委員長が岸田さん,中山克己さんとぼくが補佐役.その下に東京都とかいろいろなところの人集めてね.


─オリンピックは主に高山さんと岸田さんが上に立って施設計画のあらましを決めていったわけですが,岸田さんが丹下さんに代々木のプールの設計を担当させるに当たっては反対があったと聞いています.苦労したという話を『建築雑誌』に書いているんですが.

高山 個人的なコネクションと思われたんだろうね.


─ほかの施設を誰にやらせるかということは岸田さんと高山先生が決めたのですね.

高山 岸田さんは建築のこと以外,というかプールを丹下さんにやらせること以外,あんまり興味がなかったみたいだね.都市計画のことなんか嫌だからといって,僕と中山さんが後はやったんだよ.


─東京オリンピックのときは,前川國男さんや坂倉さんに施設の計画をさせませんでしたね.

高山 岸田さんは前川さんや坂倉さんが嫌いなんだよ.いうこと聞かないから.


─前川さんは岸田さんの前では直立不動,頭が上がらなかったという話も聞いていますが.

高山 そんなことないよ.前川さんは岸田さんのことなんかへとも思ってなかったんじゃないかな.


─戦前のオリンピックとか,万博の計画において,月島のほうに敷地を選定していますけれど何か特別な理由があったのですか.月島,佃の先に都心を移そうという計画はなぜ.

高山 一番既存の都心に近くて,空いているからだろう.




大阪万博とエコロジー

─大阪万博についてお聞きしたいのですが.

高山 大阪万博の目的というのは,大阪の経済を底上げしようということだった.関西圏の話だったんで,最初は西山夘三君なんかも企画に携わっていたんだけれど,いろいろあって最終的にはぼくなり丹下君なりが引き受けることになったんだ.


─丹下さんがここでやろうと思ったことはどのようなことだったのでしょう.

高山 関西圏の頭脳センター,情報都市をここにつくろうとしたんだな.丹下君は,ツリーという軸をつくって,グランドデザインをここでやろうとしたんだ.でも万博ではそういうことはなかなかできない.吉田五十八は竹植えちゃうし.うまくいかない.それでグランドデザインの考え方が「お祭り広場」に集約されているんだ.岡本太郎の作品はいつも建物の中に,ロビーの壁とかに押し込まれているから,ここでは天井を突き破ってしまったんだね.万博が終わった後,岡本太郎に「万博終わったら,太陽の塔も壊すぞ」といったら,私はいいですけれど,あれはもう国民のものになってしまいましたから,国民の皆さんに問うてくださいというんだ.
丹下君はあのときに大阪万博で,要するに近代都市をつくろうとしたんだ.でも,やがてエコロジーという考え方が起こって,近代都市を否定してしまったんだよ.
僕は後始末として,建物は撤去するけれど,ツリーという構造は残して,緑の公園に変えることにしたんだ.時代としてエコロジーを優先させることになってしまったのです.


─エコロジーが時代のテーマとなったということですか.

高山 時代のテーマというけれど,エコロジーという問題は,日本がずっと以前からもっていた建築や都市に対する考え方なんだ.川とか森とかいう自然と建築とを一体にデザインしてきた歴史があるんだよ.共生ということ,自然とバランスよく共存するグランドデザインの方法は,骨肉としてわれわれの中にあるんだよ.比叡山,高野山,あれは完全にグランドデザインだ.法隆寺の伽藍配置だってそう.ポイント,ポイントに自然への敬意,配慮がある.日光東照宮みたいなものがタウトに否定されたけれど,あれだって今は一概に否定できないよ.永平寺に行ってみなさい,あなた方,そういう目でもってもう一度見てきなさい.


─先生が学生のときの,古建築に関する講義はどなたがされていたのですか.

高山 角南隆先生,内務省の.この先生が「社寺建築」という講義で話してくださった内容が僕の日本的伝統に対するヒントになっている.今でもね.角南さんが自分でやっておられるでしょう.伊勢神宮の式年遷宮を.木造の建て替え.永久に変わらないということ.時代を越えて生き長らえる木造建築.ああいう方法を考えた.そのことを角南先生は教えてくれた.


─それと較べると現代建築はすぐに壊されますね.

高山 丹下君でいえば,清水市庁舎なんて壊してしまったんでしょう.なんで『新建築』はでき上がったときにはさんざんもち上げておいて,壊すというときには反対しないんだい.最初から評価しないというのならよいけどね.責任のもち方ってものがあるでしょう.残るものと残らぬものの歴史的な始末の仕方,『新建築』としてはあれで稼いだんだからね,もう少し頑張らなきゃね.ガウディみたいに設計者がいなくなってもつくり続けているものもおあるし,大石寺の問題もあるし,建築を維持していくっていうのは難しいんだよ.皇居の前の景観にしたって,今,丸ビルの件でもめているよな.第2期の景観論争だ.場所がよすぎるから難しいね.
(『新建築』1998年10月号掲載)



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