「西山夘三と丹下健三の間にある溝」藤森照信─「黒川紀章氏が述懐する丹下健三」

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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

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黒川さんが丹下研究室の出身であることはよく知られているが,なぜ京大から東大丹下研に進んだのか,丹下研ではどういう立場で何の仕事を担当したのか,については必ずしも明らかというわけではない.

”タンゲとクロカワ”については何とはないタブー感があったし,会っても喜んで話してくれないんじゃないか,という心配もあった.
そもそも私自身,黒川さんとは疎縁で,ゆっくり話したことはこれまで一度もない.
話しは聞いてみるもんである.
京大時代の”指導教官”ともいうべき西山夘三への黒川さんの疑問が銭湯設計問題に発しているとは思いもよらなんだ.現在,日本の温泉地の町の品質ランキングの両横綱は湯布院と城ノ崎だが,その城ノ崎が今日あるのは西山夘三の尽力による(もちろん町の人の努力も).西山が町づくりの一環として銭湯(共同浴場)の設計まで自分が手がけたことを,私は戦後建築史のほほえましいひとこまとして知ってはいたが,まさかその描きかけの図面が黒川青年の運命をいささか曲げる働きをしたとは.

黒川さんがその図面の中の亀甲紋まで覚えていてくれたのは嬉しかった.西山夘三は大のデザイン好き,かつ民衆の立場を大事にしたから,民衆的デザインとして亀甲をとりあげ,浴場の壁や床などに大いに使った.行けば現在も見ることができます.
社会派西山と芸術派丹下の戦後建築界における対抗関係は周知の通りだが,戦前の段階からふたりがお互いの存在を強く意識していたであろうことは,昭和10年代の建築雑誌を読むとよくわかる.前川事務所所員もしくは東大大学院生の丹下が建築表現について何か発言している前後の号には,住宅営団技師の西山夘三が登場し,きまって社会的存在としての建築家のあり方について苦言を呈しているのである.ふたりが同じ場で対決したのは昭和17(1942)年の大東亜記念造営計画のコンペで,結果はもちろん丹下の圧勝.以後,西山がデザインを諦めたわけではないが,ふたりの方向は決定的にずれてゆく.
西山の社会的リアリティに対し,丹下の内的リアリティ.このふたつの間の深い溝を若き日にひょいと飛び越えたのが黒川さんだった.

暖かくなったら,奈良の西山文庫に亀甲文の図面を見にいこうと考えている.ついでに久しぶりに大東亜記念造営計画の聖都計画の図面も.
(『新建築』1999年4月号掲載)



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『丹下健三』

\2002年に限定発売された『丹下健三』(丹下健三,藤森照信 著)の再版プロジェクトが進行中/ 本マガジンでは,『丹下健三』の魅力を伝える記事を更新していきます!
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