”丹下健三とその時代”を探して─藤森照信氏イントロダクション

この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

これまでの連載はこちら


目次
●”丹下健三とその時代”を探して
●世界への突破口となる建築家
●ほとんど存在しない原資料
●歴史の神様のいたずら
●明らかになる新しい時代のはじまり


”丹下健三とその時代”を探して

昨年(補足:1997年),東京ステーションギャラリーで「コンドル展」を開いて驚いた.いくら鹿鳴館の建築家とはいえ,100年以上前のことだし,はたして建築関係者でも関心をもってくれる人がどのくらいいるのか.企画段階でのわれわれ建築史家のこうした不安について一貫して”大丈夫”をいい続けたのは,意外にも美術史,美術館関係者と一般のジャーナリストだった.

こちらの不安に対し,ここ数年の建築家展のデータを示し,太鼓判を押してくれるのだが,それでも,図面を出しても専門家以外は興味ないのでは,などと心配の種は尽きない.結局,図面を中心にしつつも,新作の模型,装飾金物や石柱や家具などの保存されている建築パーツ,さらにコンドルの,趣味というにはあまりに本気すぎるが,日本画,落語,演劇.生花,庭園などなど日本趣味の足跡,を展示することになった.

さて,オープンしてみると,すぐカタログが足りなくなって増刷.
これまでのコンドル研究の成果をすべて投入し,おそらくこれ以上のものは今後無理だろう,と関係者が内々に自負するだけの質量をもつカタログだから買う人はいるだろう.しかし,会場で,図面などの専門的展示品を見てくれる人がはたしてどれだけいるのか.みんな,会場を飛ばし見して,資料としてカタログを買って,そそくさと去るのではないか.

中日の頃に会場に足を運んで驚いた.人がぎっしり.それも若い人が中心で,男女ふたり連れも結構いる.
学芸員の人に聞くと,建築関係以外のデザイナーや,ごく普通の人も多いという.来館者の動きを見ていると,意外にも,図面をちゃんと見ているし,中にはメモを取っている人もいる.少なくとも図面を飛ばし見しているふとどき者はいない.
ニコライ堂とか旧岩崎弥太郎邸のような名高い建物がどのような図面から実現したのか,写真と図面を見比べている熱心な人もいる.
建築家の展覧会が一般の美術館でも十分に成立することを思い知らされた.


世界への突破口となる建築家

コンドルは,日本にヨーロッパの建築をはじめて導入した人として知られる.その意味で,日本の建築の歩みは,コンドル以前と以後に分けてもよい.

では,コンドル以後の日本の近代建築の流れの中で,コンドルと同じように,その人の名をもって以前と以後に分けられる建築家は誰だろうか.
コンドルを入口としてヨーロッパの新しい建築が日本に入り込み,そしてこの極東の小さな島国の中で紆余曲折を経て成長した日本の近代建築が,孤島の国境線を越えて世界に出ていく.その出口に当たる建築家はいったい誰だろう.
世界レベルの仕事という目で見渡せば,歴史主義陣営なら渡辺節がいる.
20世紀に入ってからの歴史主義派の世界のトップのマッキム・ミード&ホワイトに量はともかく質では劣らない.
堀口捨巳の紫烟荘は1920年代に咲いた世界の話の一輪に加えてもよいと思う.
レーモンドの1920年代の打放しコンクリートの試みは,コルビュジェの10数年先を行っていた.

このように世界レベルでの仕事はいくつも実現しているのだが,その人の名をもって以後と以前に分かれる,その人以後,日本の建築が広い世界に出ていく,ということになると,渡辺も堀口もレーモンドも残念ながらその任とはいい難い.

やはり丹下健三しかいないだろう.
丹下以前,丹下以後,コンドルにはじまり丹下に至る日本の近代建築のとうとうたる流れ.

そのことがわかっているから,これまで多くの評論家や史家が丹下を論じてきた.丹下について自分の論のない建築家はいないだろう.1,000人が1,000人の見解をもっているに違いない.優れた本や論文がいくつも刊行されている.けれども建築史家として私は,そうした丹下論の盛行を喜ぶ反面で,漠とした不安を感じてきた.積み重ねられてきたのは論ばかりで,図面などの原資料と事実については,ちっとも蓄積されていないのじゃないかと.

史実と資料に立脚しない論が日持ちしないのは,論を欠いた史実と資料が退屈なのと同じことだ.このことを日本の近代建築史研究の中で何度も思い知らされてきた.


ほとんど存在しない原資料

さて,では丹下健三の史実と資料はどんな状況にあるのだろうか.

きっとどこかにちゃんとキープされているだろう,とほとんどの読者は思っているに違いない.
私もそう考えて安心していた時期もあるが,10年ほど前に,丹下さんに昔話を聞いたときから,漠とした不安が生じ,その黒雲のような不安はこの10年どんどん膨らんで,今では雨を降らし始めている.

たとえば,丹下の名を知らしめた戦前のふたつのコンペのこと.
ふたつとも図面は残っていない.
特にふたつの在バンコック日本文化会館については謎が多くて,1等当選の丹下案で実施されるはずだったにもかかわらず,途中からヘンになる.
土浦亀城の事務所が2等の前川國男案をベースに実施設計を開始したのだ.これを引き受けるか否かで所内は二分し,結局,引き受けることになって,若手所員が事務所を辞めている.戦争の激化で実施設計の途中で計画がポシャったからよいようなものの,もしもあと1,2年,日本の戦時体制が保てば,丹下が当選したコンペを,前川國男案をベースに土浦亀城が図面を引いて,チーク材の巨大な寝殿造りがバンコックの中心に実現していた.

この前川案の実施設計化のとき,丹下案も土浦事務所に参考に運ばれてきているが,そこから先,図面がどうなったのか杳としてわからない.土浦,丹下,前川,そしてこの計画の全体を見ていた岸田日出刀,のいずれかのところに伝わった可能性が高いが,いずれにもないことを,残念ながら確認している.戦前の図面は,今のところ卒業設計しかない.


歴史の神様のいたずら

では戦後はどうか.
戦後最初の本格的コンペとして知られるのは,昭和23年の広島平和記念聖堂のコンペで,丹下は1等なしの2等に入選.
結局,あれこれあって,審査員の村野藤吾が実現することになるが,このときの入選案は,丹下案,前川案,坂倉案などまとめてフーゴ・ラサール神父(昭和23年に帰化し,愛宮神父となっている)が保存してきた.このことを,広島大学の石丸紀興先生が神父から直接確認している.上智大学の付属チャペル(例の四谷駅前の大きな教会ではない)の中で,”誰かが捨てないように天井裏に入れてある”と神父は指で天井を指しながら語ったそうだ.
石丸先生からこの話を聞き,昨年,上智大学の技術顧問の葉山茂三氏にお願いして,あるかどうかチェックしていただいた.
結果はナシ.

平和記念聖堂の翌年,例の広島平和記念公園のコンペが開かれる.
今度は晴れて一等.昭和17年の大東亜建設記念造営計画コンペ,18年の在バンコックコンペ,23年の平和記念聖堂コンペ,24年の広島平和公園コンペと,1940年代の主要コンペを丹下は全勝で勝ち抜いたのだった.

そしてはじめて実現したのが広島平和記念公園のコンペになるが,このときの案はどうなっているんだろうか.これについても石丸先生が情報源.当時の任都栗司・市議会長が,大事なものだから散逸しないように自宅に保管している,と石丸先生に語っている.
そして12〜13年前,石丸先生が見てみたいと考え,任都栗氏に申し出たとき,同氏の返事は,倉庫を自由に探してみてくれ,それでなければない,だった.その後,同氏は亡くなり,現在,遺族には伝わっていない.

歴史の神様はいたずらだ.
関係者が大切にしようと手許に保管したことでかえって散逸してしまった.

丹下によるドローイングもしくは丹下研究室の図面の原図でいちばん早い時期のものは何があるのか.
幸い卒業設計は大学に残っているが,その後のものとなると,香川県庁,都庁といった大物はすべてパスで,東京計画1960の断片が東京大学都市工学科に,代々木の国立屋内総合競技場ほかの数枚が丹下さんの事務所に伝わっているにすぎない.国立屋内総合競技場までのいちばん大事な時期がない.図面だけでなく,模型などの物証もない.

私も関係諸方面に当たってきたし,もちろん事務所の方も本気で家捜しをしてくれているのだが,現在はそういう状態である.しかし,このままの状態を21世紀に送るのはあまりではないか.20世紀の建築史家として忍びない.


明らかになる新しい時代のはじまり

物がなくとも,幸い関係者の記憶はある.
丹下に最初についた浅田孝は他界されたが,大谷幸夫以下はみな現役で活躍している.そこで,縁ある人たちに語ってもらうことにした.最初はもちろん大谷幸夫.

本号に載る第一回目で明らかなように,さまざまなシーンを鮮明に覚えておられる.そして,これまで知られていない物証も見せてくれた.
たとえば稚内の都市計画の報告書.丹下が敗戦直後に手を着けたのは各地の戦災復興計画だが,オリジナルの報告書が見つかったのは稚内がはじめて.これにより,稚内の計画は戦災復興ではなくて(稚内は戦災は受けていない)地域振興策として立案され,前川國男がバックアップしていたことが明らかとなった.イサム・ノグチの広島の橋の計画も,図面が出るのははじめてになる.

もちろん,戦後という時代の出発点の内実も明らかにされる.たとえば,広島の広島平和会館(ピースセンター)の現場から写真が届いたが,わけのわからないものが写っている.
それが生まれてはじめて見る型枠というものだった.
日本の建築界は,戦争のため,10年近く鉄筋コンクリートがブランクなのである.紙すらなくて,丹下先生が次々にスケッチしながら破り捨てるのがもったいなくてしようがなかったという.

丹下のもとで仕事を続けながら,次第に丹下と自分の建築家としての違いに,とりわけ都市計画というものへの考え方の違いに目を覚めていく道筋も興味深い.大谷のその後の建築と都市への独自の姿勢がどのように形成されるかが,丹下のことを通して語られていく.

丹下健三とその時代について,この連載でどれだけ明らかになるか,読者と一緒に楽しみにしたい.もちろん丹下本人への聞き取りも,進行中であることを付け加えておく.
(『新建築』1998年1月号掲載)


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新建築社

株式会社 新建築社は、1925(大正14)年の創業・『新建築』創刊以来、月刊誌を中心とした建築関連の雑誌・専門書を発行しています。建築を様々な角度から取り上げ、新しい建築を求め誌面をつくっています。 https://shinkenchiku.online/

『丹下健三』

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