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「平和をつくる工場」という考えにモダンな思想を感じました─「大谷幸夫氏が述懐する丹下健三」前半

この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷への応援(先行申し込み)をしてくださったお客様には優先的にご案内する予定ですが、この度、一般購入申し込みの受付も行うこととなりました。
再刷の折、購入ご検討の方は下記フォームに記入の上、ご送信ください。続報がありましたら、先行申し込みの方に次いで、優先的にご案内をお送り差し上げます。


再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

これまでの連載はこちら



目次
●学生時代の思い出
●広島の都市計画
●稚内都市計画
●新銀座ショッピングセンター
●本郷の文教地区計画
●世界平和記念聖堂のコンペ


学生時代の思い出

─大谷先生が,東京大学に入られた頃,設計の指導は岸田日出刀先生がされていたのですか.

大谷 吉武泰水先生です.


─内容はどういったものだったのでしょう.

大谷 入学当初は伊勢神宮や岸田先生の自宅を模写したり,先輩の製図を手伝ったりしていました.僕は終戦の翌年の卒業ですが,終戦直後は,東京に帰ってきてない学生がまだ多いのです.授業もままならない状況でしたが,高山英華先生から「都市計画と設計をやるなら丹下健三さんにつきなさい」という助言を頂きまして,そのときに丹下さんに,はじめてお会いしたのです.


─丹下さんが「大東亜建設記念造営計画」と「在バンコック日本文化会館」(『新建築』1944年1月号掲載)というふたつのコンペで最優秀に選ばれたことは知っていましたか.

大谷 僕が学校に入る前のことですから,人づてに聞いただけです.


─ほかの戦前のプロジェクトはいかがですか.

大谷 僕らが建築の学校に入った頃は,まさに戦争の最盛期で,建築をつくっている現場,現実を目にすることがありませんでした.コンクリートを打っている現場がありませんでしたから,図面を見ても,いったい何が描いてあるのかわかりませんでした.美術全書などでヨーロッパの教会の平面図を見ても,真っ黒くつぶれた厚い壁があることだけはわかっても,その実体はわかりませんでした.気風,あるいは精神が違うものであるということだけは伝わってきましたが....



広島の都市計画

─大谷先生が入る以前の丹下研究室には,浅田孝さんおひとりしかいなかったはずです.にもかかわらず大量の戦災復興計画をこなされていたようです.広島の繊細復興計画(『新建築』1954年1月号掲載)にはどのようにかかわられたのですか.

大谷 まず現地調査に行きました.丹下さんと浅田さん,それから武基雄さん,石川充さんで....


─調査はどういうことを?

大谷 戦前の広島の状態がわからないので,それから調べました.たとえば商工会議所の資料やちらしなどから一軒一軒商店をプロットすることで商業地区の性格を読んでいったのです.そのため広島の名前とかたちはかなり覚えたのですが,現地に行って被爆した街を見ても何もわかりませんでした.線が引いてありませんからね.


─市がつくっていた都市計画を変更したのですか?

大谷 それはできませんでした.道路計画網など行政が頑としてね.


─一部の用途地域計画をやっただけと....

大谷 ただ僕は調査を担当していて,計画についての市とやり取りはよくわかりません.



稚内都市計画

─この時期,丹下研究室は広島のみならず,前橋,福島,伊勢崎,稚内などの都市計画を手がけているようですが....

大谷 稚内の都市計画はやりましたが,私は前橋,伊勢崎には携わっていません.内容は細かい都市計画というよりも,むしろ経済復興のための都市政策といってよいかもしれません.都市の復興と経済の再建・発展は表裏の関係として見なされていましたから....稚内はその極端な例といえるでしょう.
稚内は,漁業が主たる産業ですが,流通システムができていないために地元に入ってくる収入があまりありません.それをどうするかということが議論の中心となりました.具体的につくったのは土地利用計画で,既存市街地の東側に新市街地をつくる提案などをしています.丹下さんと泊まり込んで向こうで調査し,市長さんと議論をかわしたりしました.帰ってから計画をつくり,市に提出しました.ほかの地域の復興計画は復興院から依頼を受けましたが,稚内だけは市から依頼されています.そのときの報告書が手元にあります.


─これが稚内市の報告書ですね.1951年,第2部と記されている.はじめて見ました.

大谷 基本的には,用途と動線で,ひとつの近代都市計画の基本ですね.資料は学会か稚内市に残っている可能性はありますね.
前川さんが顧問となっている,いわゆる戦災復興,空襲の復興ではなく,今でいえば,純粋なまちおこし的な計画ですね.当時としては,いわゆる戦災復興ではない計画はこれだけでしょうか.特殊な,逆にいうときわめて早いものです.調査に行ったのは1947年だったと思います.



新銀座ショッピングセンター

─戦後,銀座の露店商を収容する目的で,商業ビルをつくるという設計競技があり,そこでも丹下さんは1等を獲得していますね.

大谷 僕も手伝ったという程度で図面を描きました.はじめてやった建築プロジェクトですね.あの頃の行われた一連のコンペでは内田祥文さんの深川の案が印象深かった.


─この新銀座ショッピングセンターは最初の実現案ですが.

大谷 まったくタッチしていないわけではないと思うのですが,あまり記憶がありません.プレキャストのアンカーの仕方でいろいろもめたことを覚えています.建築の近代化を支える日本の技術を改めて知るわけです.


─新宿のコンペでは2等が丹下案ですね.

大谷 コンペに取り組むということはどういうことか,具体的にはどういう作業が行われるかをはじめて知る印象深いものでした.ただ,当時はまだ紙がない.トレーシングペーパーがないという状況は歯痒いものでした.丹下さんはこのような状況にもかかわらず,巻紙にデッサンを描いては捨て,描いては捨てするのにびっくりしました.作業手順としては,丹下さんがスケッチをして,それを読み取りながら図面化していました.

三越での展覧会「都市復興展」は,具体的な案を出すというのではなく,啓蒙,主張のための展覧会です.参加した多くの建築家にとっては,経済重視に対するアンチテーゼとか,民主革命と都市計画といった主張のほうに関心があったようです.ただ,僕は,その伝わり方みたいなものに疑問があって,つまり報われないものを感じたのです.そのことに丹下さんは気がついたのでしょうね.それから後,丹下さんは僕を展覧会の企画に誘わなくなりました.



本郷の文教地区計画

─「本郷の文教地区計画」(『新建築』1948年2・3月号掲載)は,高山さんが頭になって,やられたのですよね.

大谷 そうです.高山さんが頭で,丹下さんが全体を指揮しました.ただ,高山さんや丹下さんが大枠を決めて,皆がそれに従って線を引いたわけではありません.性格づけは皆で議論するから,建物の配置などはそれぞれに考えなさいと....コルビュジェからいただいたピラミッド形はたしか池辺陽さんのです.
高山さんは直接図面を引くことはされなかったと思います.


─どのような議論が展開されたのですか.

大谷 僕自身の疑問が議論されなかったこともあって,都市計画の方法が僕には明確にされなかった.どうやって決めたかをはっきり説明できないのはそのせいです.大学を手がかりに地域に特殊性を賦与するということはわかるのですが,何かを決めていく上での原理,歯止め,規定,現実的にどう押さえるかといったことが最後まで僕には見えませんでした.これだという何かが僕には最後まで掴めなかった.

ずっと後のことですが,ある段階がきてわかったのは,日本において都市計画というものは役所が固有の権限としてやっているもので,われわれ建築家がやることは所詮,外野の意見でしかないということです.何も役所に対するカウンターとなり得ない.何をいっても顧みられないことが虚しくなりました.



世界平和記念聖堂のコンペ

─村野藤吾さんが結局やることになる世界平和記念聖堂のコンペにも,丹下さんは大谷先生と浅田さんとで案を出されていますね.戦後最初の大きなコンペですが,ここでは何を課題として設計を進めていったのですか?

大谷 教会の配置の原則を崩して,教会の近代化を図ろうという気持ちがありました.教義ではなく,建築の純粋な方法論で解決しようと....パースに描かれているギリシャ神殿のキャリアタイド(ギリシャ神殿の人像列柱)のようなものは聖人です.


─えっ,あれは聖人像ですか.あのキャリアタイドが異教的ということも,丹下案が実施にならなかった理由のひとつだったのですか.

大谷 聖人像でした.下図を描いたのは丹下さんで,われわれがそれを仕上げました.ペレー風のステンドグラスは,色鉛筆で彩色されています.シェル構造への関心はこの時期から芽生えたものだと記憶しています.構造形式を素直にかたちにする手がかりをシェルに見出していたのです.


─当時,O.ニーマイヤーやO.ペレー,あるいはA.レーモンドなど外人の建築家で意識されていた方はいらっしゃいましたか.

大谷 丹下さんもレーモンドは気にされておられたと思います.
たぶん打放しに興味があったのでしょうね.

世界平和記念聖堂のコンペのときは浅田さんも実際に図面を描いていました.提出したものは,薄美濃に描いて,鯨井さんという絵師屋さんに出して表装したものです.最初,裏返しに表装されてしまい,あわてて直しました.当時は薄美濃に描いて絵師屋に出すのが一般的だったように思います.実際に見たことがないので詳しくはわかりませんが,「在バンコック日本文化会館」も同様に表装したのではないでしょうか.


─この時期のコンペ案に登場する一連のシェルやアーチはどういったところから発想されたものなのでしょうか.

大谷 E.サーリネンのジェファーソンメモリアルのことは聞いていましたが....伝統的でない新しい造形であり,重苦しくもない.かつ合理性があり,雨仕舞いにも問題が少ないと考えました.P.L.ネルヴィの影響はないと思います.
(なお,このインタビューは1997年10月14日と10月22日の両日,東京・代々木の大谷研究室で行われた.『新建築』1998年1月号掲載)


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