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グランドデザイナーとしての内田祥三/日本工作文化連盟とモダニズム

この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

これまでの連載はこちら




グランドデザイナーとしての内田祥三

─大同の計画で先生が一番参考にされたものは何ですか.

高山 特に何かを参考にするというよりも,とにかく現地の事情にあわせるやり方で計画を進めていったね.地形は勿論のこと,旧市街地を残すとか,炭鉱の場所を考慮するとか.


─大同のときは現地にどのくらい行かれていたのですか.

高山 一カ月かな.内田先生は外国行くのが嫌いなんだよ.とにかく旅行はしない.それがなぜあのとき大同へいったかというと,奥さんの弟さんが大同の蒙彊政府にいっていて,心配だから見てきてくれとせっつかれて仕方なく行ったんだ.内田祥文君つれて.あと関野克さん.関野さんには都市計画はどうでもよいから熱河などを見についていきなさいといってね。それで,その弟さんの家というのに一カ月泊まり込んで,合宿したんだ.
僕自身はあまり細かく描いてもだめだと思っていたんだけれど,内田先生や祥文君は実際に絵にしておかなければだめだというので,東京に帰ってきてから祥文君が絵を描いたんだ.市川清志君なんかも手伝ってね.内田先生から,民家は大同にもともとあるようなものに準拠しなさいという指示があったんで,コートハウスみたいになっているでしょう.それを少しモダンなものに変えたりしてね.部分的にちょっとはできたようだよ.建物が.これは戦災復興のときとは違って,実際にできることを想定した計画だったから.


─内田先生はどのような意見をいったのですか.

高山 内田先生は法規までつくってしまわれた.絵は僕とか若いもんに任せてくれたけど.緑地制度とか経済的な面,ソフトの問題は内田先生が考えてくれた.何しろ内田先生みたいなオールマイティな人はいないよ.


─内田先生は東大のキャンパス計画をやられてますね.

高山 そう.内田先生はとにかくオールマイティだけれども,本当はデザイナーなんだよ.自然との共生が見事に組み込まれている東大のキャンパス計画などを見ても,この人はグランドデザイナーだなと思います.あのくらい大きなグランドデザインはなかなか,ほかの建築家は成し得ていない.
東大のグランドデザインの基調となっているネオゴシックというのに対して,あの時代,僕らはちょっと古臭いと思っていたんだよ.だからあんまり興味ないし,雑誌も『建築雑誌』なんていう固いところしか取り上げないんだ.内田先生のネオゴシックというのは,独特の造形とスクラッチタイル,日之出石のポインテッドアーチ.東大の営繕課というものを使ってそういう様式を確立したんだよ.今見てもいいでしょう.ちょっと色の感覚が悪いところが難点なんだけれどね.
毎年,夏休み,別荘に行って自分で200分の1の図面描くんだよ.それを営繕課の人に拡大させる.大きなグランドデザインをやって,営繕課にやらせる.営繕課をネオゴシックの工房にしたわけだ.ところが忙しくて手が回らないから,岸田日出刀さんなんかを営繕課に入れて,安田講堂なんかやらせたわけだ.岸田さんは,コルビュジエなんかあんまり好きでない.むしろ折衷派といってよいかもしれない,そういうところが趣味だった.ロッテルダムに行ってからそんな趣味になっていったんだね.だから教養学部のほうが,岸田さんと一緒にやった安田講堂よりも内田先生らしいでしょう.


─実際に東大の営繕で内田先生のネオゴシックを具現化していったのは.

高山 柘植芳男さんだね.大きなキャンパス計画というと,時間もかかるし,統一的なデザインというのがなかなかできにくいんだな.始まったのが戦前でしょ,それが現在まで続いているわけでしょう.内田先生のネオゴシックのグランドデザインに対して,それを壊さないように時代を写しながら手が加えられてきた.歴代の東大の先生に少しずつやらせた.香山壽夫君の作品だってそうだ.


─東大は爆撃されませんでしたね.

高山 占領したら建物を使おうと思っていたんだろう.僕は関東大震災,戦災,そして阪神・淡路大震災と,3回も大きな都市災害に出くわしているんだ.まず,バラックができて,そのうち直しましょうといっているうちに直らなくて,そのまま何となく都市ができてしまう.ということは都市のグランドデザインというものがないんだよ.それは日本のある限られた地域のことだけではなくて,昭和,あるいは明治,大正まで含めて,日本を代表する都市景観は,と考えるととても難しいんだよ.住宅単体を考えたってそうだ.今は2×4も入ってきて,どう考えたらよいのかね,日本の町は.みんな玩具箱ひっくり返したような都市だ.
妻籠,馬籠といったところは,とにかく土地の棟梁の技術なり手法といったものが高い次元でそろっており,とても美しい統一された街並みができている.そういう街並みだったらよいけれど,保存すべき街並みなんて,日本のどこにあるのか,ということも考えなくてはいけないと思うんだよ.整っている美しい街並みなんて日本にはないんだよ.
でも,今はないにしてもこれから残すべきものをつくっていかなくてはならないことは確かだからね.建築家がグランドデザインと正面から取り組んでよい街並みをつくるのか.住宅メーカーが100年もつような住宅つくって,それが日本の残るべき街並みになっていくのか,エコロジーという問題を考慮した後世に残るような街並みを,僕らがこれからつくっていかれるのかどうか,心配なんだ.
それはともかく,内田先生のことは,あなたがた歴史家なり,ジャーナリズムがきちんと記録しておいてくれないと困るな.




日本工作文化連盟とモダニズム

─日本工作文化連盟は東大のモダニズムに興味のある人たちがやっていたと考えてよいのですか.

高山 小池新二さんが中心になってやっていたね.それから堀口捨巳さん,岸田さん,佐藤武夫さんなんかが関係していて,その下で,丹下健三君とか,本城和彦君なんかが手伝っているという感じだった.でもプロデューサーは小池さんといってもよいと思うよ.


─『現代建築』という雑誌を出すのが主な目的だったのですか.

高山 そうそう.内田先生に怒られたんだ.『建築雑誌』より先に『現代建築』に大同の計画を先に発表してしまって....『現代建築』の第1号には坂倉準三さんのパリ万博日本館が掲載されていた.


─内田先生は工作文化連盟をどのような目で見ていたのですか.

高山 はじめから何も気にしていなかったね.


─みんながモダニズムをやることについては勝手にやりなさいと.

高山 息子はそっちのほうだしね.祥文さん.でも竹山謙三郎さんなんかは,非常に常識的な人ですが,モダニズム建築を批判しています.岸田さんが丹下君の岸記念体育館を『建築雑誌』に出したときに,竹山さんは『新建築』とかそういったところならともかく,『建築雑誌』などに発表するものではないといっていたのを覚えています.


─内田先生は,堀口さんが分離派を起こしたことに対して腹を立てていたという話を聞いたことがあるのですが.

高山 いや,そんなことはなかったんじゃないかな.自分たちは自分たちできちんと世界をつくっていらっしゃったからね.


─工作文化連盟の準会員というのを見ると丹下さんや薬師寺さんが入っています.丹下さんが『ミケランジェロ頌』を書いて,わかりにくい内容のものですが,同時代の人には異様な迫力のものだったと聞いています.その中で丹下さんはコルビュジエのことをとても評価するのですが,工作文化連盟においても同様にコルビュジエは評価される対象だったのでしょうか.バウハウスとどちらかが評価されていたのでしょう.

高山 バウハウスのほうが固いという印象だったかな.ドイツ的,コルビュジエのほうが芸術的.当時は坂倉のパリ万博日本館などが非常に高く評価されていたな.あれなどバウハウスというよりもむしろコルビュジエだ.


─工作文化連盟としては,明確にバウハウスよりコルビュジェという感じがあったのでしょうか.

高山 いや,そんなことはない.小池さんは,両方というか,何でも新しい傾向を受け入れていこうという考え方をもっていたんです.
(後編に続く,『新建築』1998年10月号掲載)



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