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メタボリズムは主義主張か?/情報化社会を細胞で考える/メタボリズムを拡大した運動としての「チーム東京」─「黒川紀章氏が述懐する丹下健三」後半

この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

これまでの連載はこちら


「東京湾を都市の一部と考えるという発想は,丹下先生に夢と勇気を与えたんです」
黒川紀章

前半はこちら


目次
●メタボリズムは主義主張か?
●丹下さんの軸線指向とは異なるもの
●東京湾を都市の一部として考えるということの衝撃
●情報化社会を細胞で考える
●メタボリズムを拡大した運動としての「チーム東京」
●プロデューサー浅田孝



メタボリズムは主義主張か?

─メタボリズムの準備は具体的にはいつから始まったんですか.

黒川 世界デザイン会議の開催が決まったときですから,1958年の10月ぐらいなのではないでしょうか.
浅田さんが事務局長で,川添登さんと僕が事務局長付きスタッフという関係です.それで浅田さんが檄を飛ばして,メタボリズム運動は始まります.ただ,ふたりだけではどうしようもないので,まずは榮久庵憲司さんを呼んできて,次は菊竹清訓さんに話をしたんだと思います.ですから最初はこの4人ですね.

そのうちにメタボリズムという構想が生まれてきて,会議に向けて出版をしようということにまでなります.最終的には自費出版で英語と日本語版を出して,会議の席上で売ろうということになりました.
たしかミノル・ヤマサキは4〜5冊買ってくれたように記憶しています.


─メタボリズムという名前はどなたが考えたんですか.

黒川 菊竹さんが辞書か何かから見つけてきたんだと思います.
名称を考えるうえで苦労したことは,考え方の異なるメンバーの共通の認識を表現するものであり,この言葉によってみんなをまとめることができたらということです.
菊竹さんがこのメタボリズムという言葉を見つけてきたときには,こんなに相応しい言葉はないんじゃないかと思いましたね.新陳代謝という単なる名詞であるにもかかわらず,イズムが最後についているので,主義主張としても通用しそうだ,仮に,いまさら主義主張でもないだろうという批評があれば,これは単なる名詞で,主義主張ではありません,と逃げることもできました.
その当時はメタボリズムなんていう言葉,誰も知りませんでした.


─準備のための会議は,どのくらいの頻度で行われていたんですか.

黒川 ピーク時は毎晩やっていましたね.
最初は国際文化会館で,それから菊竹さんの家でやることもありましたし,槇文彦さんが参加されてからは槇さんの家でも随分やりました.

槇さんの家でネッシーをテーマに会議したことを覚えています.
メタボリズムの対極にあるものは何か,というのが本当のテーマだったんですが,話し合っていくうちに,それはネッシーだろうということになったんです.つまり,古代よりいつまでも変わらないネッシーを解明しないとメタボリズムはわからない,そんなテーマで朝まで議論したことを覚えています.


─ほかに覚えているテーマは何かありますか.

黒川 川添さんは,メタボリズムと日本伝統論の間の橋渡しを考えていました.
僕はといえば,建築以外の分野,つまり音楽とか詩とか絵画とかいった分野から生物学,社会学,医学,経済学等の分野で自分たちと共通の認識をもった人たちと共同戦線が張れないだろうかということを終始考えていました.そして,これぞと思った人には直接会いにいって自分たちの運動の説明をしたものです.
音楽家ではクセナキスに近いものを感じていましたし,建築関係ではジャン・プルーベに会いに行っています.


─準備のための毎回の会議のテーマはどのように決まっていったのですか.

黒川 本の出版が決まってからは,メンバーが順番でテーマを考え,そのメンバーが最初にそのテーマにそって発表するという形式を取っていました.




丹下さんの軸線指向とは異なるもの

─磯崎新さんと一緒に担当された東京都庁舎の増築に関して,うかがいたいのですが,このプロジェクトを通して自分と磯崎さんの違いなどを感じられましたか.

黒川 このプロジェクトは,丹下先生が描かれたスケッチを元にしていますので,僕らふたりの意見はあまり入っていないというのが実状なんです.
人工地盤をどうするかという問題があって,それに関しては丹下先生も含め3人でずいぶん議論しましたが....丹下先生の万年筆で描かれた明快なスケッチを元に,何度もやり変えながら作業を進めていきました.

東京都庁舎増築計画以降にも,発表時に僕の名前が出ているものがあるようですが,正式に依頼された設計にはかかわっていませんので,実施になった作品にはまったく携わっていません.


─高松の一宮団地の発表にも黒川さんのお名前が記されていますが.

黒川 あれは,神谷宏治さんが取ってきた仕事で,僕はお手伝いをしただけです.ただ,僕の案は採用にはなりませんでした.
僕の案は,東西南北を無視して,複雑に壁が交差している,今でいうフラクタルな造形で,大きな領域をとらえても,小さな領域をとらえても,ひとつのまとまりをもち得るホモジニアスなプランをもった計画です.しかし,丹下先生の指向するものは,こういった多方向に展開するものではなく,一方向にまっすぐ軸が通るものですから,自ずと僕の案は採用されませんでした.
僕が丹下研究室において仕事にかかわるというのは,こういったアイディアを考える段階までです.


─黒川さんの案は,愛知の農村都市計画に近いものだったのですか.

黒川 似てはいますが,もっと複雑で4種類くらいのグリッドが重なり合うものです.連続した壁でも,それが露地を形成したり,広場を形成するといったようなとても魅力的なものです.

ご存知かどうかわかりませんが,愛知の農村都市計画は,伊勢湾台風を契機として発表されたものです.
僕はあのとき,たまたま郷里に帰っていて,台風を体験しました.
実家が2階建てでしたから,自分自身は大丈夫でしたが,1階は水に浸かって,1階部分に魚が泳いでいたり,溺死した人が流れてくる様などを目撃することになります.
そういった体験が,生産と居住を立体的にすることはできないだろうかという発想につながるんです.
農地の上に,居住施設を載せるということなんですよね.ですから,計画にあるグリッドは歩道なんです.あぜ道を立体的にしたというイメージです.道の建築の出発点にもなっています.
また,K邸という僕のプロジェクトは,この農村都市につくる住居のプロトタイプとして計画したんです.実は親父のために設計したんですが,こんなところに住めるかといわれて,実現はしませんでした.

この農村都市計画はさまざまなメディアに取り上げられたんですが,取り上げられることで多くの方との接点ができました.川添登さんもそのひとりです.
川添さんのことですから,丹下研究室に京大の西山研究室出身の黒川ってやつがいるっていうことや,そいつが建築懇話会なんていうところで事務局やっているなんていうことも知っていたでしょうが,メタボリズムのメンバーを選ぶ際に直接の要因となったのはこの計画です.
また,小松左京さんと親しくなるのも,彼がこの農村都市計画に興味をもって,ある雑誌での対談の相手として僕を選んでくれたからなのです.


─丹下先生の軸線に代表されるデザインの方向性と,黒川さんご自身のデザインの方向性の違いについては,当時,実感していましたか.

黒川 実感していましたね.丹下先生が真っ直ぐに軸を通したスケッチを描いてきて僕に渡すんですが,僕はそれを曲げてしまったり,細胞単位化したりするんです.それを丹下さんに提出するんですが,またそれが真っ直ぐになって返ってくる,そんなやり取りの繰り返しでした.




東京湾を都市の一部として考えるということの衝撃

─1958年にいわゆる加納構想が発表されます.当時の住宅公団総裁,加納久朗さんが発表したもので,原爆で房総半島の鋸山を吹き飛ばして東京湾の東半分を埋め立てて都市をつくろうという計画ですが,それと東京計画1960の関係はどうだったんですか.

黒川 僕自身が東京湾に関心をもって,東京湾に対する独自の計画をした際に,8の字型のループ状の橋を東京と千葉の間に架けようと考えていたことはよく覚えています.
この8の字型のループと循環する輪みたいなものが,最終的に東京計画1960で現れるサイクルポーテーションに結実していきます.
東京計画1960のときも,東京都千葉を結ぶブリッジは環状道路単位の連続にしたかったんですが,丹下先生は最終的にその上に直線の道路を架けちゃいましたね.


─加納構想は知っていたけれど,それに触発されたということではないということですね.

黒川 僕はとにかく埋め立てるということにまったく興味がもてなかったんです.東京湾をそのままにしながら,開発しなければ意味がないと思っていました.ただ,東京湾にさまざまな可能性を見い出すという意味では非常にインパクトがありましたし,私を含めて多くの人が影響を受けたんじゃないですか.


─東京計画のごく初期の段階については,何かご記憶にありますか.

黒川 丹下先生の最初期案のものは,千葉県側に台形の埋立地がつくられているんです.
僕はこの台形のエッジが余計だと思いました.埋め立てるにしてもそれは成長していくべきだし,その成長のし方にはさまざまな可能性があっていい.ですからこのエッジの線はいらないんです.エッジがあったらそれが限界になってしまいます.軸を構想するにしても,その軸から毛が生えるみたいに発展していけばいいと思っていました.


─加納構想との関連はどうだったんでしょうね.

黒川 加納さんがその構想を練る際に,丹下先生は加納さんから呼ばれていますからね.まったく関連がないとはいえないでしょう.岸田日出刀先生とか丹下先生は何らかのかたちで加納さんと接触があったんですよ.だから,加納構想の話は丹下先生から聞いた覚えがあります.東京湾のほうへ東京を伸ばすということについてのコンセプトに対して,共通する認識をもったんでしょうね.

想像することもできないような巨大な都市が,民間,あるいは国の力でつくることができるという可能性があるということについて,多くの人が衝撃を受けたんではないでしょうか.東京湾を都市の一部と考えるという発想は,丹下先生に夢と勇気を与えたんです.




情報化社会を細胞で考える

黒川 東京計画1960に関しては,そのさまざまな段階のエスキースにおいて,細胞の構成が登場しますが,それらは僕が構想したものです.
ブリッジも平面的には環状の細胞で構成されているんです.それがリニアに増殖することで,都市が形成されていきます.
共生という僕の考え方からすれば,中心があってそのまわりに自然がというのはだめで,循環を学んだリニアなものの周囲に自然が発生してこなければならないのです.


─東京計画1960の発表の際にも,細胞から胚が伸びる写真を用いて,線状に発展することの意味が解説されています.あの細胞が成長するというイメージは,黒川さんあたりがもってきた8mm映画か何かがヒントになっているということを渡辺定夫さんから聞いたんですが....

黒川 よくは覚えていませんが,当時,生体解剖図であるとか,植物の細胞図であるとかいったものにとても興味を覚えていて,たくさんそういった資料を集めていました.
東京計画1960ではバイオロジカルに発展する都市ということをまず第一に考えていますから,当然,細胞から胚が伸びる映像などはイメージとしてあったはずです.部分と全体が共に自律していて,それぞれがフラクタルに関係するといったことは,細胞というか,生物学とつながるところがとても大きいのです.

ただ,丹下先生が細胞の発展過程の中から脊椎,骨の成長に関心をもったというのはショックだったんです.
つまり,僕はあくまでも細胞の成長なり関係性に関心があったわけで,骨ではないんですよ.そのことは丹下先生にもいったのですが,丹下先生は,細胞が分裂しながら成長するというのはアメーバとか下等動物の発展形態であって,高等動物はやはり脊椎なんだよ,とそうおっしゃるのです.
そういわれてしまってはねぇ....

でもやっぱり細胞だと思うんですよ.
細胞と細胞というのは,互いに情報を出し合っています.つまり情報の行き来がある.
僕は1960年代に『情報化列島日本の将来』という著作を発表しているんですが,当時から情報ということに関心がありました.
現在では誰もが知っている情報化社会という言葉も,はじめて使ったのは僕なんです.ですから,細胞の増殖をモデルとしながら,情報の問題として都市を考えるということは,先見の明をもっていたといえるのではないでしょうか.

細胞と細胞の間のコミュニケーションが,機械的伝達ではなく情報的伝達だといった問題を,丹下先生とずいぶん議論をしました.
ただ,どうしても丹下先生は軸ということを強調されましたので,ブリッジは真っ直ぐになっています.しかし,ブリッジから続く動線が上陸し,地方都市へと続く部分を見せてください.かなりくねくねとしたものになっているでしょう.
せめて上陸してからは,僕の好きなように不規則なメタボリックな形態にさせてもらおうと思ったんです.




メタボリズムを拡大した運動としての「チーム東京」

─東京計画1960のあと「都市計画と都市生活展」(1962年10月12〜17日/西武百貨店)という展覧会に参加しておられますね.当時の雑誌には,メンバーとしては高山英華,丹下,大谷,大高正人,菊竹,槇,磯崎,それに黒川さんのお名前が記されていました.

黒川 メタボリズムをスタートさせたときに丹下先生から,メタボリズムもいいけれど,もっと幅広く人材を集めた大きな運動に発展できないだろうか,という話があったんです.

しかし,思想も何もかも違う人間がひとつの運動を起こすというわけにはいきません.たとえば磯崎さんは前衛芸術家の人たちと交流があって,自身の作品にもそういった傾向があったと思います.しかし,僕は父に対する反抗やら西山さんからの影響やらで,アートというよりも社会的な側面から建築が考えられれないかと試行錯誤していたわけですから,一緒に何かやれるのとは思ってもいませんでした.
ただ,丹下さんからは,こういう連中を集めろという具体的な指示があり,それで確か国際文化会館で集まったのだと記憶しています.
それが「チーム東京」であり,チームの名前もすべて丹下先生の発案です.そのときのメンバーというのが,「都市計画と都市生活展」に集まった人たちです.

「チーム東京」をつくるのはいいけれど,考え方も個性も異なるメンバー共通の認識は何なのかをはっきりさせなくてはなりません.
そこで「チーム東京」の最初の集まりのときに,ぼくが黒板を使ってレクチャーしたのが,「部分から全体を発想する」ということです.
丹下建築を含めて,通常まず建築設計のひとつの問題点は,まず空間を四角いものだとあらかじめ想定してその中で建築を考えようとしているところです.しかし,内部のそれぞれの空間は,あちらこちらに独自に伸びようとするポテンシャルをもっているんだから,最初から外殻を決めてプランニングするのではなくて,内側から計画していかなければなりません.
偶然に四角くなることもあるけれど,どこか飛び出したようなものがあってもいいのではないかということです.建築を小空間の集合としての開放系と考えることを「チーム東京」の基本路線とすれば,メタボリズムとも絡むし,建築の新しい動きになるんじゃないかと,そう主張したのです.でも,みんなしらけていましたね.結局,1,2回集まってそのまま終わってしまいました.

丹下先生としては,メタボリズムのメンバーにほかの優秀な若手建築家が加わって,それがメタボリズム以上に大きな運動になって世界に羽ばたいていくことを夢見ていたんではないでしょうか.苦々しく,しかもたぶん羨ましく思いながら世界的規模の建築運動を自分の手で育てたいと思われていたんでしょうね.ただ,チーム東京に関しては宣言文も出していませんし,記録としては何も残っていないんじゃないですかね.
僕は当時,海外の人からよく質問を受けたんです.磯崎はメタボリズムグループに入っているのか,あるいは丹下健三とメタボリズムの関係はどうなんだとか,という質問です.


─今でもそういった質問はよく受けますね.

黒川 それで僕は,チーム東京の話をして,メタボリズムを拡大発展させていこうという方向があって,そこには丹下さんも磯崎さんも関係していたんですよ,というようなことを話すんです.
丹下さんは,メタボリズムグループの考え方に対して賛成するとも反対するとも何もいっていません.ある一定の距離を取って様子を見ている,そんな感じだったように思います.




プロデューサー浅田孝

─四国で行われた「四国の建築を語る」という会議を覚えていらっしゃいますか.

黒川 僕が四国の建築に関係していたのは,すべて浅田孝さんを通してなんです.浅田さんは,当時,四国の都市計画の顧問か何かの仕事をしていました.僕は終始,彼にくっついて行動しており,会議なども出席させてもらっていました,大学院生のときは,研究室にいくか,そうでなければほとんどの時間を浅田さんといっしょに行動していたんです.


─黒川紀章さんと浅田さんは,性格的にも合いそうな感じがします.それは修士課程のときからですか.

黒川 そうですね.僕は浅田さんから信頼されていて,とにかくほとんど毎日,一緒に過ごしていました.
一緒にいて何をやっていたかというと,日本の将来について議論したり,また浅田さんは僕にいろいろな宿題を出したんです.
たとえば,コルビュジエのモデュロールを参考にして,地球モデュールといったような物をつくれないかとか,そういったことです.人の生活圏というものを宇宙的なスケールで考えるとどうなのかをまとめてみろというんです.地球から太陽までの距離を調べたり,四苦八苦しながらなんとかまとめた覚えがあります.


─浅田さんは,どこかからそういった研究を依頼されてやっていたんですか.

黒川 そうではなくて,浅田さんは常にさまざまな問題に興味があって,それを僕にぶつけてきたんです.ほかにも,CIAMについてどう思うかとか,そういったことです.CIAMの質問に関しては,つい批判的な意見を述べてしまい,それじゃあアテネ憲章について具体的にその問題点を指摘してくれと,より突っ込まれてしまいました.僕はアテネ憲章など部分的にしか読んでいなかったため,急いで全文を読み,文章をまとめ,浅田さんに渡しました.
毎回,そのような,ある意味で突拍子もない,だけどどこかで真実味を帯びている質問を僕に浴びせてきたんです.
浅田さんは,その顧問をやっていた関係で,四国から建築の仕事をいくつか受けていたものですから,自分自身の設計事務所をつくりました.それで僕に所長になれということをいってきたんです.しかし,僕としては,どんなに小さくとも自分の名前で事務所をやりたかったものですから,ありがたいお話ではあったんですが,お断りしました.でも何度も口説かれたんですよ.結局は田村明さんが所長になりました.


─浅田さんは設計をされたんですか.

黒川 しましたよ.それから僕の弟子でもおあった氏家さんが田村さんの下にいまして,設計をやっていました.四国の丸亀国民宿舎ほんじまの仕事も浅田さんの関係で依頼があったものです.


─浅田さんは丹下先生の最初の弟子というか,パートナーに近い人で,敗戦後すぐから丹下先生を支えてきた浅田さんは若い人に丹下先生とは違ったものを出させたいという気持ちをもっていたのでしょうか.

黒川 そうだと思います.浅田さんは建築に限らず,天文学やら医学やら,世界で起こっているあらゆることに関心をもっていましたが,要するに次の時代はどうなるかということに関心があったのだと思います.

僕がお付き合いをし始めた時期の浅田さんは,丹下先生に対して,ある部分批判的でした.サポートしてきた分だけ,その裏腹に寂しさみたいなものもあったのではないかと思います.
丹下先生が切ったわけではありませんが,丹下先生としても,以前ほど浅田さんのことを必要としなくなってきます.その一抹の寂しさもあったのではないでしょうか.
ただ,先ほども申し上げましたように,丹下先生と浅田さんは資質がまったく違います.浅田さんは,宇宙的な広さをもっているような人ですが,丹下先生にはいい意味でも悪い意味でも作家としての狭さがあります.この時期はもうお互いに,資質の違いを自覚されていたんだと思います.ですから余計に,丹下先生とは違う新しい世代を育てなくてはいけないという気持ちがあったんではないでしょうか.丹下先生が作家だとすれば,浅田さんはプロデューサー,あるいは思想的なテクノクラートだと思います.
(『新建築』1999年4月号掲載)


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