雨男 最終話 祝福の雨、約束の虹
【恋愛小説】『雨男 ~嘆きの谷と、祝福の~』エピローグ
離陸から何分も経っていないのに、驟は座席の横の小さな窓にかじりついた。
「ヒコーキに乗ろう」そう提案したのは、虹子のほうだ。
驟ははじめ、尻込みした。驚いたことに、これまで飛行機に乗った経験がないというのと、〝他の乗客の迷惑になったらいけない〟というのが理由だった。究極の雨男だから――なんか危険なことになったらまずい、と。
窓の外は雨である。エンジン音なのか、風切り音なのか、空気のうねる音が低く機内に響いている。
「ほんとうに、大丈夫かな」
ふり向いた驟は、いまも不安そうだ。昨日、さんざん説得したというのに。
「大丈夫。私が保証する」
虹子は余裕たっぷりにうなずいて見せた。
「昨日も一緒に話したよね、驟の運命ってなんだろうって。雨の中にい続けることが、あなたの運命ってわけじゃないんじゃないかって。むしろ、そこから脱出することが、与えられたミッションなんじゃないかって」
「でも」
驟はうつむいた。長い睫毛がきれいだった。
「何べんも、何べんも、いろいろ試してダメだったんだ」
「うん、それも昨日、聞いたよ。だけど、次は違うかもしれないじゃない」
「またダメかもしれない」
昨日と同じやりとりを繰り返していることに、やれやれと思いながらも、虹子はほほ笑んだ。驟だってきっと、やれやれという気分になりながら、虹子の部屋のかび掃除をしてくれているのだ。
「いいじゃん、ダメでも。そのときは、そのときで」
驟は黙った。ここまでは、昨日と同じだ。反論のすべがないというだけで、驟が納得していないのはわかっていた。それでも虹子は旅行会社勤務のスキルとコネで航空券を取り、浮かない顔の彼をなんとかここまで引っ張ってきたのだ。
虹子は軽く、咳払いをした。
「神さまは、私たちを、耐えられないような試練に遭わせることはしないんでしょう?」
驟がはっとして顔を上げる。虹子は続けた。
「試練と共に、逃れる道を用意してくれるんでしょう?」
微妙な沈黙があった。照れ臭さに耐えられず、今度は虹子が下を向く。
「虹子さん、聖書、読んだんだ」
「……驟がいない間、暇だったから」
「コリントの信徒への手紙 一の、10章13節だね。有名な箇所だ」
《あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。》
ささやくように驟は暗誦し、ようやく落ち着いた様子でシートに身を沈めた。
「そうだよな。うん、そうだ」
「なによ、ひとりで納得して」
いきなり、窓から明るい光が射した。
「うわっ」
驟は目を丸くして身を乗り出し、窓にかじりつく。
機が雨雲を通り抜け、雲海の上に出たのである。
真っ青な天空が、驟を釘づけにしている。眼下には白い雲の海が、どこまでも輝いて波打っている。
あなたの頭の上の雨雲の、そのまた上にはいつも青空があったのよ。あなたはずっと、晴天の下で生きてきたのよ。
言いたくなるのを、虹子は我慢した。
「俺……」
どれだけ経っただろう。驟が自分に視線を戻してくれるまで待っていた虹子は、おもむろにスマホを取り出した。
「ねえ、これ、見て」
満月の写真を画面に出して、驟に見せる。
「いつかのスーパームーンの日、驟が寝ている間に撮ったの」
「え?」
「そう、あなたが眠っている間、空は晴れていたの」
傷んだ柿がきっかけで、お互いにひどいことを言い合ったあの日。夜半にふと目が覚めて、雨音がないのを訝しく思い、布団からそっと起きだしてカーテンの隙間をのぞいたら、静謐な星空が虹子を見下ろしていたのだった。
26年間、ずっと雨のなかで生きてきたと驟は言っていたけれど、希望はある。本人もまだ知らない希望が、この世界には隠されているのだ。虹子はそのとき確信した。
羽田発、山形空港行き。
さほど遠くない航路で、連休に2席あいている。条件のそろったのが、たまたま山形行きだった。これも神さまの采配か、と不思議だった。しかしそれは確かに虹子に勇気を与えた。自分のやるべきことをやろうと思い、いま驟と一緒に機上にいる。
「昔さ」
驟が、あらたまった口調で語り始めた。
「聖書をくれた牧師さんに、俺、くってかかったことがあるんだ」
神さまなんてどこにいるんだ! イエス・キリストなんか、大昔に死んだ、ただの人じゃないか。
「それで? 牧師さんは、なんて言ったの?」
「君は将来、牧師になりなさい」
虹子は笑い、驟も笑った。周囲の客が不審げにふたりに目を向ける。その気配を察して互いに声を抑え、肩をすくめた。
「俺が牧師になったら、その教会はずっと雨だよね?」
驟の声は真剣だった。
「だから、希望はあるって。もしダメなら、さすらいの牧師とかでもいいんじゃないの」
「さすらいの? 面白いなあ、虹子さんは」
顔をくしゃっとさせて、驟は笑む。
「ふつうに生きる必要なんて、ないんじゃない」
言いながら、ほんとにそうだと虹子は自分に言い聞かせた。
ふつうに生きる必要なんて、ない。私たちは、どこにだって行けるのだ。
驟は再び窓をのぞき、光がきらきらと弾けている天空を眺めて、深く息を吸いこんだ。
「聖書を読んでいると、俺はこんな神が、ほんとうにいたらいいと思えてくる。いてほしい、っていうか。読むごとに、その思いは強くなる。それは、俺を安らがせてくれる」
「うん」
「……やってみるよ」
「うん」
驟はごそごそとパンツのポケットをまさぐり、自宅の鍵を取り出して、キーホルダーを外した。赤いお守りである。
「これ、米沢の神社の、上杉謙信のお守り。ガキのころ、母さんがくれたものだけど、虹子さんにあげる」
なんで? と聞きそうになるのを飲みこんで、虹子は考えた。まさか、結婚指輪のかわりとかいうんじゃ……。
逡巡している虹子の手に、驟は強引にお守りを渡し、にぎらせる。
「俺がそばにいられない間、変なオトコにつきまとわれないように」
「は?」
なにそれ! と虹子が言い返すより早く、
「一緒にいよう」
驟は言った。
「虹は雨上がりにかかるんだよ。ノアの箱舟のときもそうだったんだよ」
「でも私、6歳も年上よ」
「関係ないよ、いまさら」
驟の顔が虹子の視界いっぱいに近づいてきて、目をつぶると、唇が重なった。
羽田空港は霧雨だった。虹子は思う。山形はどんな空だろう。晴れるだろうか、やはり雨が降るのだろうか。
たとえ雨でも、たぶん、それは祝福というやつだ。
(了)
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