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橋で祈る9 ◇夜の底を流れるもの

連載小説『橋で祈る ~夜の底を流れるもの~』最終話


  ***

 傍らで、礼が寝息を立てている。風のない静かな夜だ。
 和室に蒲団を並べ、川の字になっている。一番トイレに近いところが愛子、中央が礼だ。
 古い畳のにおいがする。北海道の草原に、コロコロと点在する枯草色の牧草ロール、その間を吹き抜ける秋の風のにおいに似ている。
 礼のとなりで寝つかれず、乃々花はいまにも動き出しそうな天井の模様をながめている。背中から、古い家の湿気がしみてくる。

『道は、示されているはずです。身のまわりに、さまざまな形で。心を開いて、よく、考えてみて。そして、お祈りしてください。〝神さま、道をお示しください。私の目を開かせて、示してくださった道を見つけられるようにしてください〟こんな感じに』
 夕食後、愛子が渡してくれたメモにはそう書いてあった。
 ときおり台所の蛇口から水がしたたり、シンクに跳ねる音がやけに響いて耳につく。道端の草が揺れる音まで聞こえてきそうな静けさだ。
 はたと、そのとき、なぜか、わかった。
 静寂の底に流れているのは、川だ。
 暗闇の下でも、休まずに流れ続けている水音が、かすかな音のすべてを包んで夜の底に沈んでいる。
 不思議と安らぎ、乃々花は眠りの海に潜っていった。

   ***

 朝、タイマーセットされていた炊飯器のにおいで目が覚めた。ふくよかな空気が、米の炊き上がりを知らせている。
「わが家の朝は、卵かけごはんです」
 なぜか得意げに礼は宣言し、また祈るというので今度は乃々花も目をつぶった。
「ご在天の父なる神さま、今日も新しい朝を与えられましたことを感謝いたします。今日一日、私たちが御心にかなう働きができますように、お守りとお導きをお願いします」
 そのあとは、「めぐみに感謝して――」と、昨夜と同じ文言が続いた。
 茶碗に盛った白いごはんに生卵を割り入れて、醤油をたらし、箸でまぜる。
「〝の〟の字だね」
 礼がことさらに大きく〝の〟の字に箸を動かして見せた。愛子もおもしろがって右手で器用にまねをする。卵と醤油とごはんが〝の〟の字にまざっていくのを見て、乃々花もまぜた。たしかに〝の〟の字だ。
「一個たりないね」と礼が言う。
 野々辺乃々花に〝の〟は四つ。
 茶碗は三つ。
 一つたりない?
 礼の含意に思い至って乃々花が手を止めたとき、スマホが再び夫からの着信を告げた。

 昨日と同じに「はい」と出ると、今度は沈黙が返ってくる。つばを飲む音がする。
 なに、とか、どうしたの、とか言おうとした矢先だった。
「だしまき卵がないんだよ」
 かろうじて絞り出したという声で、夫はぽつぽつとその先を語った。
「おれのせいで、生活が変わった。それは、認識してる。けど、どうしろっていうんだ。いまさら」
「あなたのせいじゃないわ」
 あきれた笑いのような言い方になった。どうしたことか、心の靄が晴れていき、胸の奥に愉快な気分が湧いてくるのを乃々花は感じた。
「でも、やっぱりあなたのせいよ。そして、私のせいでもある。結局、だれのせいでもないのよ」
「なんなんだよ」
 夫は明らかに当惑していた。
「そのうち話すわ」
 自分でも意外なほど晴れやかに言い放ち、迷いなく通話を切る。

 愛子がいたずらめいた表情で、メモをよこした。文字ではなく、落書きである。
〝ののべ〟と〝ののか〟の二つの顔を〝へのへのもへじ〟みたいに描いた絵だ。〝の〟を目、〝べ〟と〝か〟をそれぞれ口に見立てた二つの顔が並んでいる。口をへの字に曲げた〝ののべ〟の横で、〝ののか〟はほうれい線をくっきり刻んでガーガーと小言をまくしたてているみたいだ。
 それでも、頬寄せ合った二つの顔は、ほほえましい。
 乃々花は苦笑した。
「夫婦って、しょうもないですね」

   ***

 橋に吹く風のなか、自転車を押す礼が前をゆく。
 昨日まで知らないも同然だったのに、昨日と同じパーカーを着たその姿に今朝は深い親しみを覚える。
 人と人との距離感が、たった一夜でこんなに変わるなんて驚きだった。まったく奇妙だ。でも、よく考えたら子供のころはあたり前に日々起こり、あたり前に受け入れていたことだったかもしれないと思う。
 礼が足を止め、遅れて少し離れてしまった乃々花をふり返る。
「オレはまっすぐ店に行くけど、乃々花さんは」
 川音に負けまいと、礼は歌っているみたいに声を張り上げた。ハスキーな余韻が、吊り橋の複雑に組まれた骨格に弾け、朝の光にとけていく。
 乃々花も息を吸いこんで、腹に力を入れて声を出した。
「遅番だから、一回、家に帰る」
 風はぬるく、空の青もどこかねむたい。桜の便りも近いのだろう。
「礼!」
 再び歩き出そうとした礼を、乃々花は思わず呼び止めた。
 風に、雪どけのにおいがある。
「この風のにおい、小樽と同じ、雪どけのにおいよ」

 信じられないことだった。
 雪がないのに、なぜ?
 その問いは、声に出さなくても礼には届いた。
「ああ」顔を上げ、礼は川上をながめやる。
「きっと上流の山から、風にのって運ばれてきたんだ。山には雪が積もるから。たぶんいまごろ、雪どけなんだよ」
 川の流れを伝ってくる、雪どけの風――。
 橋を渡ってみようと昨日突然思ったのは、このにおいに惹《ひ》かれたせいだったのだと、乃々花はようやく納得した。

『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』
 今朝、愛子が示してくれた聖書の一節が、ふと頭に浮かぶ。
 朝食後のことだった。
 昨夜眠れずにいたことや、一人ぼっちの静寂のなかで豊かな音を聞いたこと、そして、川の水音がすべての音を包んで夜の底に流れていると感じ、安心して眠れたこと、そんな話をしていたら、愛子はメモ用に握っていたペンを離し、かわりに『THE BIBLE』を手にとって、乃々花に向けてページを開き、そのなかの一か所を指で示したのだった。
『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』
 横から身を乗り出してきた礼は、一見して、
「ヘブライ人への手紙、11章1節か。愛子サンが一番好きな聖句だね」
 と、口角を上げた。
 それがいま、橋の上に立つ乃々花に、ふわりと降ってきたのだった。
 これまでぼんやりとしていた、その聖句のいわんとするところ、あるいは感覚、もしくはその言葉が内包しているなにか――目には見えない輪郭のなかにある、実体の存在感、とでもいうようなもの――が。

 望んでいる事柄、それは、自分にとっての、雪の下に隠された道のようなものなのではないか。その、見えない事実を確認したいから、自分は雪どけにこだわっていたのではないか。そして、雪の下に隠された道と、夜の底を流れる川の音は、きっと同じものなのだ、と。
 少なくとも、乃々花には。

 ここへくるまでの道と、これから先へ続く道、その間に存在しているのは、いまここにいる自分――これもあたり前のことなのに、忘れていた。と、一瞬思い、否、と乃々花は首をふる。
 私は昨日、全力で追いかけたじゃないか。
 自分で、ないがしろにしていたものを――。
 気づいた瞬間、乃々花に湧き上がってきたものを言い表すとしたら、勇気、という言葉になるのかもしれない。
 自然に、足が動いた。
「ねえ、礼」
 近くへ歩み寄る。
「なに」
 あきれるほどまっすぐな目で、礼は見つめ返してくる。
「きちんと録音しよう、あなたの歌。昨日、広場で歌っていたやつ。聴きたい人がいっぱいいると思う。その人たちに、聴かせてあげたい」
 いいよ、あっさりと礼は承諾し、親指を立てて見せた。
「神さまがそれをお望みなら成る。お望みでないなら成らない。だから、やってみよう」
 そして「先に行くね」と自転車にまたがり、走り去った。

 乃々花は胸が熱くなった。まずは録音データを、局時代の仕事仲間に聴かせてみよう。企画を立てて、沼津のコミュニティFMに持ち込むのも方法だ。ユーチューブにアップしたっていい。できること、思いつくことを片っ端からやってみよう。考えただけで、とめどなく胸が熱くなる。
 顔を上げ、川を見はるかすと、昨日も見た景色が、今日はまったく新しいものに感じられた。
 こうやって、世界は日々、洗われているのか――。
 風が全身をなでていき、その風に、祈ってみようと乃々花は思った。

(了) 

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