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夜風の匂いと、インマヌエル

 子どものころ、毎晩こっそり自分の部屋の窓を開けて、夜風の匂いを感じていた。

 古い一軒家の2階の部屋で、窓の前には痩せた蝦夷山桜が1本立っていた。その向こうには小さな街路灯があり、山桜の葉や枝を透かして見える光が美しかった。雨上がりには無数のしずくが輝き、きんと凍れた日には樹氷のようなものが煌めいて、ことに美しかった。

 夜風の匂いは、季節によって異なっている。天気や、その日の人の営みによっても違う。注意深く感じていれば、それは夜ごと同じではなく、目には見えない空気も、日々変化しているのだと、私は知った。

 北海道の札幌に住んでいた。
 冬の夜気は、しんと引き締まっていて、「水の結晶の香り」とたとえたくなる、清冽な雪の匂いがした。
 夏は豊満な命の匂いだ。花や虫や小さな動物たちが、命を謳歌していることを思わせる、甘くて濃い空気が漂っていた。
 秋は切なく、春は喜びに満ちていて、しかしどこかに不穏な気配を秘めており、いわばさまざまな「狭間の匂い」がした。

 夜風は私にとって、トモダチだった。夜風の中に、あるいはさらに向こうにある何かに話しかけ、応答を聞きたくて、耳を澄ませ、心を開こうと努めていた。

 子どものころの他愛ない話。けれども、純粋だったなあと思う。

 キリスト教には、インマヌエルという言葉がある。「主は共におられる」という意味のヘブライ語だ。私がその言葉を知ったのは、40代で洗礼を受けたあとのこと。そしていま、インマヌエルを思うとき、昔、夜風をトモダチと慕っていたあの感覚にたどり着く。

 人の世界でひとりでも、目には見えない、親しくて大きな存在が、いつもそっとそばにいて、ちっぽけな私を慰め、休ませ、安らがせてくれる。それを信じることで、支えられる。



◇2020.3.15追記
写真は変更し、新しくみんなのフォトギャラリーから、あい(ai_kotoba)さんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

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