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底無し沼ーそれでも抗う狂った希望ー


自分を傷つけて、社会からも排除され、妥協に妥協を重ねても何もうまくいかない。

八方塞がりなんていうのが、生温いくらい行き場がない。

もう人間でもなく、誰からの救いもない。
そう言った意味では当然なのかもしれない。

しかし、自分の生存本能なのか

誰とも違う”あいだ”の人間として生きてきてしまった強さなのか

無感情なまま解決の道を模索している。
それでも解決の道は存在しない。

どんどん深みにはまり、改めて再度終わりがない不幸になってしまったのだと認識する。

ここまで状況が狂っていると笑ってしまうぐらい苦しい。あ、10年前と変わらないんだ。


今まで歩いてきて、死ぬ物狂いで戦ってきた人生も無意味だった。

どこにも存在していない自分を
必死になって証明し続けて

それをたくさん否定されて消されて

それでも立ち向かった日々は、一体なんだったのだろうか。

救いようのないお話には、もちろんオチがあるわけでもない。ただ続くのだ、不幸と地獄と排除が続く。

街を走り回ると、自分だけが別次元を生きているように思えてならない。もっと簡単にいうのなら透明人間のような、誰にも視認されない絶望感。

僕だけが一人苦しんで、誰にも見られずに死んでいくのだろうと思わざるを得なくなる。

それなのに、もう十分理解しているはずなのに

諦めても諦めても、「必ずうまく行く」と思っている心はなんなのだろうか。

自分で尊厳を傷つけることを選び、傷つけたのに。絶望しかなくて、絶望に押し潰されて息も出来ないのに。


なぜ生きようとする。
なぜ戦おうとするのだ。


一人ではもう無理なんだよ。
誰もが自分を傷つけてくるんだよ。
血を流しても笑って見てるだけなんだよ。
みんな僕を一人にするのにだよ。
何もかもうまくいかないんだよ。


でも、なぜ必ず救われると信じている。


世界はエリートたちのものである。
世界は犯罪を犯しまくる人々のものである。
世界は何も思考しない人たちのものである。


それでもそれでも立ち向かい、自分を殺してもなお、なぜ生きようとする。


多分それは、意地というよりも証明しなければという使命感なのだろう。


いかなる手段を用いれば、必ず救われるという。そして、自分の経験が、苦しむ人たちの心を救う解決策に役立てたいという、狂った正義感なのかもしれない。

もちろん、そんな話をしても誰も救ってなどくれない。目障りだものね。というよりも、危ないカルトな宗教に近いものに聞こえてくる。


もう十分頑張った。
もう僕のせいだけじゃない。
もういいんだよ。
さぁ辞めようよ、死んでもいいんだよ

いいや、まだ戦う。
これも捨てれば、あれも捨てれば。
こうすれば、ああすれば
きっと叶う、きっと救われる
きっと実現する、きっと愛される
きっと笑っている、きっと見返せる
きっと報われる、きっと褒められる
きっと自分らしくなる、きっと、きっと、きっと…


だから底無し沼なのだろう。

それから諦める=本当の死なのだろうか


夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。