見出し画像

特権と闘っていた頃ーひと時の錯覚ー


闇雲に闘っていた頃の僕は、不安も絶望さえも力にできた。どこにも存在していなくても、どんな言葉も届かなくても。何かが変わるんだ、こんなエリートたちに負けるものかと。

もう少し冷静でいたならば、これからが永遠の苦しみで満たされることもなかったのかもしれない。

それで後悔があるのか、行動しても後悔は後悔として残る。ただ、何か変わることはずだと信じていた心は、信じていたかった。


僕が闘っていた人たちは

ある人たちの下に生まれ、ある場所で育ち、自分の世界を揺るがす出来事に出会うことなく、選択肢が常に極上のものであることを疑うことなくいられる人を指す。

それは、一度きりの人生ガチャで最高のレアリティを得られた瞬間である。

しかし、まるでアプリをダウンロードしてもらいたい運営側が、「初回限定で星5レアリティプレゼント」並みに、人生のスタートが恵まれた者は多くいる。

どの社会にもいえることだが、特権を持つ者と多く出会うにはその特権がフルに使われている空間に存在しなければならない。

あるいは、選択や能力という点において「多数者よりも優れた力」を持つ者たちに接触する必要がある。

だからこそ、何も持たないも僕が、その特権を不自然な形で手に入れることは僕を戦いへと誘った。

何よりも”許せない気持ち”という気持ちが溢れていた。

なぜ自分が得られなかった生活や能力を、簡単に得られるのか。その事実が許せなかった。

そして、特権意識に対して無自覚でありながら、行動には特権階級として振る舞いが身についていることに勝手に傷ついていた。

そもそも特権意識とは、どのようなことを指すのか。


特権意識(Entitlement)とは、「自分が他者よりも多くを得るに値し,多くを得る権利を持っているという,安定して一貫した感覚」(Campbell,Bonacci, Shelton, Exline, & Bushman, 2004, pp.30–31)


こんな風に思っていないという人が多いとは思う。


それに特権意識を顕在化させている人は、多くが批判の対象になるだろう。

しかし、こんな風に思っていないとする特権を持つ者たちは、一体どの場所に、どの立場に存在しているのだろうか。


自分たちと同じものを共有することのできる世界ではないだろうか


特権意識が日常的に存在している空間では、特権意識としてのいやらしが見えなくなってしまう。だからこそ見えなくてなってしまう。無自覚を自覚あるものとして表に出すのも至難の業だろう。

支配者を生産する場所に、支配を受けていた者が紛れ込むことができたことで僕の人生を大きく変わる。

特権を持つことが、麻薬のような気持ちよさを得られること。

特権が特権として君臨し、特権に対する「悪」を示されても、揺るがない地位にいることでの安定さが守ってくれる。

ああ、だからここにいたいのか、ああ、だから再生産されるのか。そんな風に感じている自分がいたことも思い出す。

ぬるま湯に浸かり、自らも特権者になれるのかもしれない。

そんなうまい話はあるわけがない。

特権は、生まれながらにか持てないか、である。

あるいは、「お金」「選ばれた才能」の名のもとに、特権を持たぬ者に力を与えられた後に初めて特権を持つ者として存在できるのである。

もしも甘い考えで、一瞬でも特権を得られるかもしれないという錯覚に陥れば大きな罰が下る。まして、戦いをしていた側の人間が、一瞬の気の迷いでも絶望に変えてしまうぐらいの力が「特権」なのである。

「特権」は、最初から特権を持つ者が、最初から持っているものが特権なのだ。そのようなことを思い出されてくれたのは、研究のためにある授業の一貫で行った高校での一言と、自ら研究調査でいった高校での出来事であった。


夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。