ここはどこだっけ?ー突然の浮遊感ー
ふと、ここはどこだっけ?と思うことはあるだろうか。
いつもの見慣れたはずの景色なのに
電車の中、外を歩いている時、カフェで一休みしている時…
あれ?自分はどこにいるんだろう?
と分からなくなることがある。
突然のあの浮遊感は一体なんなのだろうか。少しばかり深いうたた寝してしまって、「あ、寝ちゃった」と急に頭をあげたときのような、気持ちよさもあると同時に、現実と夢の境界線が分からなくなってしまう感覚である。
そう思うと、ときどき駅から家の帰り道で、突然ワープしているときがある。多分200mぐらいだと思うのだが、あのコンビニからどうしてこの道にいるのだろうと。
毎日、情報量の多い中で暮らしていると「無駄な情報」を取捨選択しているのだろうか。それとも何か病気だったり・・・ということはないだろう。
突然の浮遊感になるときは、比較的安全な場所や座っているときであり、深く物事を考えているときである。
大抵その時は、あまりにも恵まれたものを見たり、なんでこの人が幸せになっていいの?とか、偽善的で排他的な人間が成功するの?という状況の情報を多く受けてしまった時な気がする。
最近は、底辺人だということを受け入れてしまったことで増えているように思う。自分の状況を受け入れることは多分難しい。けれど、立ち向かうことはできるわけであって。無駄なことだと言われても、諦めないことに対して称賛されても本人の心は傷ついている。そして、何か別の犠牲を力にしている。
最近、ようやく少しだけ社会との繋がりを復活させた。もちろん勉強も計画を立て始めた。正直、どの道を選んでも「自分らしさ」を取り戻せるかは難しい。復活させて数日は、かなりしんどい思いをした。久しぶりに負荷をかけるわけである。
新しい場所、新しい人、新しい内容、同じ過ちを繰り返さないために、たくさんの苦しみを抱えて、いつかのために役立てさせる。それは素晴らしいことだけど、ご褒美込みじゃないと人間はやっていられない。
そう改めて感じる。人間ってうまいことできていないと学ぶ。まあ自分の環境が特殊なだけか。何もかもが欠損しているなか、自分の思い通りになるとは思っていない。
結局、誰か達を基準とした人生設計以外は考えられない。
逆に考えれば、それだけ当たり前の人々が多いからである。
例え嘘であっても、望んだ形で存在していれば、それでいいのに。
何かを持つ人々、奪われずに来れた人、当たり前の人から恵まれた人まで
ありとあらゆる人々を見て、辛い戦いだなと打ちひしがれてしまうこともある。
言葉は味方ではないけれど、紡ぎ続ければ何かあると信じて。そんななかで生きているから、一瞬でも浮遊させて忘れさせてくれているのだろうか。
突然の浮遊感、それは「生きるための策」なのかもしれない。
夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。