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「で、なんで一向にブログ書かないの?」

などと言われると、ドキッとするのはなぜだろう。義務として課せられているわけでもないのに、自分の好きにしていいはずなのに、なにか罪悪感や背徳感に似た感情に襲われてしまうのだ。

確かに、このnoteでもいいし従来のブログでもいいのだが、最近なかなか長文を書こうという気が起こらない。その理由は2つある。

一つは、長い文章は当然めんどうだからということ。
もう一つは、Twitterに比べて、長文エントリは人に読んでもらえる可能性が明らかに低いからということだ。

仮に何かエントリをアップして、TLに通知を流す。でもそこには、リンク先にわざわざアクセスするという高いハードルがある。そのまま文章が流れてくれば読んでしまうTwitterユーザーの中でも、別のサイトに飛んでまで読んでくれる人というのは、非常に限られた数になる。より多くの人に読んでもらいたいと仮定するなら、僕の場合はツイート以外は悪手となってしまうのである。

思えば、誰にも読まれるあてのない文章を書いた記憶が僕にはほとんどない。古式ゆかしい意味での日記もつけない。自分が死んだら書いた日記は燃やしてほしいという人もいたが、僕はそういうタイプではない。

かつてブログを始めた時、アクセス数はそれほど気にしないと言いながら、閲覧数が伸びたエントリがあるとやはりそれなりに嬉しかった。毎日のアクセス数がこの数字以下に下がったら辞め時かもしれないなと思ったこともあった。つまり何だかんだ言いながら、読んでもらえているかということを結構気にしていたのだ。

長文、と前提したが、もちろん短いエントリでもいいはずだ。何文字以上でなければならないというルールはない。ただそれだと、僕の場合はそれこそTwitterで済んでしまうのだ。自分の意識の中での棲み分けを考えると、noteやブログはある程度以上の長文でなければわざわざ書く意味がないのである。

書く意味。
そういうことを言い始めると、さらにそもそもを考えざるを得ない。

文筆業でお金を稼ぐというのならシンプルだ。でもそうではない場合、ライフログであれ自意識についてのものであれ、書くというのは自分のことを知ってもらいたいという根源的な欲求が絡んでくる。特にネットにアップするというのはそういうことだ。自分の考えを整理するだけではない。ある意味で孤独感から逃れるための、人にまみれる行為としての自己表現が「書く」ということになるのではないか。

とすれば、人に向けて書いている以上、より多くの誰かに読んでもらえる可能性を考慮するのは当然ということになる。水は低きに流れ、僕は楽に流れる。効率の支配する世界では効率が優先される。

繰り返すが、純粋に「ただ書きたい」というエゴだけがあるなら別だ。誰も見ていない舞台で一人で踊り続ければいいのだ。  

長文を書かない理由を長文で書くという、皮肉のような言い訳のようなエントリをここらで締めたいと思う。ご静聴どうもありがとう。

やぶさかではありません!