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真夜中のレース。

運転免許を持っていない。ほとんどの人たちは高校の卒業前に取得してしまうであろう車の免許だが、僕はちょっとした事情からその期を逸してしまったまま今に至っている。東京に住んでいる現在は、車を運転できないことの不便を特に感じることはない。幾重にもはり巡らされた地下鉄は東京のどこへ行くのにもスムーズな移動を約束してくれているし、ポイントとなる街から街へは頻繁にバスが通っているし、緑色の環状線は3分おきに日夜休みなく回り動いている。そして決して安くない車の維持費や駐車場代、車検費用等を負担しなくて済んでいるのはむしろメリットともいえる。もちろんデメリットはある。例えば遠出の際に、交通手段として電車や飛行機以外の選択肢がない。旅行先でレンタカーを借りることもできない。いかに家族が望んだとしても、休日の予定の選択肢にドライブが入ってこない。

高いビルから東京の街を見下ろすとまるで血管のように道路が伸び広がり、ゆっくりと数珠つながりに走る車は赤血球を連想させる。道路は都市の動脈だ。そして車が多すぎる東京は少々血行不良に見える。ここを走るのはストレスだろうな、と思う。だがそれも、一度も運転したことのない人間の物言いに過ぎないかもしれない。手の届かない葡萄に対してどうせすっぱいだろうと負け惜しみを言う童話のきつねのようなものだ。都内ではスピードを出すこともなかなか難しいだろうが、車の運転は基本的に気持ちがいいだろう。スピードを上げて車を飛ばす行為は楽しいはずだ。車が発明されたのも移動効率だけが考えられたわけでは絶対にないと思う。ある日誰かが「スピードを出すのは気持ちがいい」と発見したのだ。スピードは間違いなく快楽だ。

運転免許がないと書いたが、車を運転したことがまったくないかと問われれば、それは「NO」と答えなければならない。それも、公道ではなくサーキットで。そう、普通免許のない僕は、サーキットで車を運転したのだ。ほんの一度だけ。

それはやはりアルバイトに明け暮れていた19歳の頃の話で、僕は友人のHと一緒に仙台のとある警備会社のアルバイトに登録していた。接客などとは違って暇な分、退屈で面白味のない種類の仕事だったが、不定期にできる気安さとギャランティが週払いというシステムが貧乏学生にはありがたかった。仕事の時間帯は朝から夕方までか、夜から明け方までの2種類から選ぶことができた。内容は交通整理から会場の警備まで何種類かあったが、たいていは話し相手もなく一人か二人で立っているだけの孤独な仕事だった。しかしその日、Hが持ちかけてきた仕事は少々イレギュラーと言わなければならなかった。僕とHの二人で、レース前夜のサーキットの深夜警備をするという仕事だったのである。もちろん、一も二もなく快諾した。

仙台には大きなレースが行われるサーキットがいくつかあるが、我々が警備をしに行くことになったのはそのうちの一つだった。サーキットは飛行場と同じで騒音回避のために山奥にあることが多く、今回のそのサーキットに行くのにも、市街地から車を一時間ほど走らせなければならなかった。僕は最初に書いたように当時から免許を持っていなかったので、Hの運転する車の助手席に座ってサーキットに向かった。途中のコンビニで食事を買い、ぼそぼそと他愛もないことをしゃべりながら、ちょうど暗くなった頃に現地に到着したのだった。ぽつんとした管制塔と、巨大な駐車場。山に囲まれた静かなるサーキット。あたりは静まり返り、聞こえてくる音と言えば山鳩と虫の鳴き声だけだった。我々は出入口付近のチェックを行い、指示されていた仕事としていくつかの確認をした。それが終わればもう不審者が入ってこないように備えておけばいい。簡単な仕事だった。我々は車のリクライニングを倒し、雑誌を読み、腹が減るとコンビニの弁当を食べた。人のいないサーキットは本当に静かで、仮に侵入者がいたとしても、それは人間というよりも動物くらいなのではないかと思われた。

僕が言い出したのかHが持ちかけたのかは定かではないが、あるひとつの提案がその場でなされた。それは「せっかくだから車の運転を練習しよう。しかもサーキットを走ってみよう」というものだった。まさにミイラ取りがミイラというか、こういう事をする輩が来ないように警備をする仕事のはずだったのだが、まさに我々が侵入者になったのだった。車は警備会社のもので運転初心者におあつらえ向きなオートマ車である。条件は申し分なかった。邪魔する者は誰もいない。僕はHから簡単に運転の仕方を教わると(アクセル、ブレーキ、ギアチェンジ)、おそるおそるサーキットの中へと入って行った。助手席には教官H。もう深夜なのでライトをつけないと何も見えない。車のライトに照らされた前方に浮かび上がるコースは、思いのほか幅が狭く細く感じられた。運転はまったくの初めてということもあり、何度もエンストした。それでもHは根気よく教えてくれた。車はじわじわと誰もいないサーキットを進んでいく。ぶつかるものはないとはいえ、真夜中の暗い道でスピードを上げるのは結構な恐怖だった。だが僕は徐々にだが感覚を掴みはじめていた。何周かしたあたりで教官Hは言った。
「じゃ、一人で走ってみますか」

夜が明けようとしていた。漆黒だった空が深みのある青のグラデーションに変わっていく。山の端が薄むらさきに染まり、一日の始まりに新鮮な空気が吹き込まれたような、そんな爽やかな朝だった。さっきよりはコースがよく見える。明るさのせいなのか僕の目が慣れたせいなのかは分からなかったが、爽快な気分だった。直線ではスピードを上げてみた。今まで知ることのなかった気持ちの良さを感じた。自転車やバイクとはまた違う、大きな物を自分が操っているという感覚。それが車の感覚だった。そして第一コーナー、サーキット独特の急カーブ。僕は慌ててハンドルを切ったが、スピードが出過ぎていたのだろう、音を立ててタイヤがスリップし車はわずかにコースアウトした。道にスリップの跡がついたかもしれなかったが、かまわず走り続けた。僕は可笑しくなった。明け方の無人のサーキットを警備会社の車がよちよちと走っている。ぜひ上空から見てみたいと思った。それはさぞかしチャーミングな光景に違いない。

「面白かったよ」僕はHに告げ、車を駐車場に戻した。夜はすっかり明けていた。仕事の時間が終わろうとしていた。僕は数時間後に訪れるはずの、このサーキットで行われるレースとその賑わいのことを思った。そして僕が第一コーナーに残したであろう、あのスリップの跡の事を思った。早朝の陽射しは強く、十分に暑かったが空気は澄んでいた。まだ交通量の少ない真夏の道を、Hの運転する車は軽快に街に向かって走っていった。

※このお話はフィクション、ということにしておきましょうか。

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