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すべては正しかった

運動を日常ルーティンに取り入れてから、いつもちょっとずつ筋肉痛である。といっても痛いわけではなく「筋肉使ったなー」くらいの感覚が全身にある。今朝も走ってきたが、何しろここ1ヶ月ずっと天気が良いので休まずに続けられている。

昨日、隣町にある「何でも置いてある本屋」と僕が呼んでいる書店(本当に探してる本がだいたい見つかるのですごい)で、パスカルの『パンセ』を買ってきた。

2014年に図書館で借りて読んだことがあったのだが、なかなか面白くて、いつか手元に置いて好きな時に読めるようにしたいなと思っていたのだ。面白い、といっても自分が書かれていることをきちんと理解できるというわけではない。この世界的な哲学者による初版1669年の書物がすんなり理解できたら苦労はしない。しかも『パンセ』の正式な題名は『宗教および他のいくつかの問題に関するパスカル氏の諸考察〜氏の死後にその書類中より発見されたるもの』というもので、多分に宗教的色合いの強いテキストとなっている。もともと護教書執筆のための断片的メモという位置付けで書かれたものらしいが、断片というのが実にその通りで、今の感覚でいうとまさに「ツイート」という趣なのである。そこが面白かった。

解説は小林秀雄。この解説もなかなか読ませる。
おすすめです。



日々は面倒で、意見の合わない他人は煩わしく、先の見えないことは不安に感じられる。だがこうして文字にするとわかるが、これはほぼ人類共通の前提的なストレス源と言える。自分だけではなく、万人が見えない明日に向けて手探りで進んでいる。

すぐに命まで取られるわけじゃない、という言い方がある。そんなの当たり前じゃないかという声が飛んできそうだが、生きているだけで命まで取られていた可能性が時代によっては(または場所によっては)あったのだ。現代は生きづらさの強い時代だとは思うが、生きづらさの多くは社会状況からくる精神的な問題であり、もっといえば自己の認識の問題でもある。それだけ我々は洗練された時代と社会に生きているわけだが、「気の持ちよう」がこれほど効果的に作用する状況もない。

数奇な状況、さまざまな成り行きによって今ここにいるとした時に、ふと、「すべては正しかったのではないか?」と思うことがある(正しさの定義づけは難しいものだが、あえてそういう表現を使ってみる)。これはおそらく逆説的な話だ。例えば自分がこうして何かを書いたりしていること、本名(&顔出し)でSNSをやってないこと、天職というほどの確信を持てぬままこの仕事を長く続けてきていること、狭いながら自室で在宅仕事をしたり個人的な活動をできる環境にあること、そして郊外に住んで好きな環境で走ったりできること。列挙するととりとめもないが、そうした自分にまつわる「現状」がまずあって、今の自分がこれから生きて何かをやっていく時に、それらが自分の持ち駒であり色であり個性であり…といったものとして、肯定的に立ち上がっていく気がしている。願望も込めてそう思うのだが、これも一つの「気の持ちよう」と言えるかもしれない。

我々は前に進むしかない。

やぶさかではありません!