シリアスさについて。

「自分をシリアスに考えるというのは、基本的にみっともないことだ」柴田元幸

確かに、やたらなシリアスさというのはどうやらバカにされる傾向にある。若き日(平成11年のエッセイからの引用である)の柴田元幸が言うように、シリアスなことは「基本的にみっともない」のである。

しかし、なぜみっともないのか。

結論から言ってしまうと、「シリアスな態度は余裕がなさそうに見えるから」ということだろうか。自分の懊悩や煩悶をそのまま態度に出すことは、それだけ他者から見た時の、余裕という名の軽やかさとは縁遠くなる。

感情に楽しげな服を着せる余力がなく、丸裸が人にそのまま見える。何も感情の話でなくとも、どんな人でも丸裸はあまりサマになるものではない。(いえ、見せるためのヌードは別ですよ別)

余裕がない人を見ていると自分に余裕が生まれたりする。それは相手の「底」を見ることで、自分を相対化・客観化できるからであろう。例えば大勢で走っている時に、いかにも疲労困憊という他人の姿を見て、なんだか元気になってきたという経験は自分ならずともあるはずだ。そこはとうぜん体力の問題ではなく、マインドの話である。

かくいう僕もシリアスになりがちな傾向は否めない。これは性格的なマイナス面であろう。徹頭徹尾、態度をジョークでくるむというクールなことが出来る人はカッコいいばかりか、いざという時の落ち込みが「ものすごく気の毒に見える」。これはいわゆる「雨の日に子猫を抱き上げる不良」と呼ばれる現象である。ギャップ理論である。僕などは「たまに子猫を抱き上げようがナニしようが不良は不良だろう」という立場を取るタイプに属するわけだが、何しろ人の魅力というのはギャップに潜むと言って過言ではなく、真面目で堅実一辺倒というのは印象的に損をする…って何の話でしたっけ。

そうシリアスさ。シリアスになってしまうかどうかというのはひとえに、その人のキャラクターの問題とも言える。みんな生きてるととうぜん色々あって、そんな中でシリアスさを態度に出すか出さないかというのは、対人評価という軸の中でけっこうなポイントになるのではないかと思う。

つらい時につらさを100%表に出さずにいられる人というのはそれほど多くない。満ちた感情というものはどうしても垣間見えるものだ。そして、それを表に出さないようにする姿というのは、少なからず人の心を打つのである。

僕自身は、自分のシリアス要素を認識しているということもあってか、人がシリアスになっている姿には好感を持つタイプである。好感というとおかしいかもしれないが、シリアスな人のシリアスなストレートさに打たれるのである。それは洒脱ではないかもしれない。でも僕は、人というもののそういう部分が好きである。

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