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魂の救済。

先日、誰かが「魂の救済の物語」について書いていた。これはある種、究極的なテーマであると思う。

まず、人は自選的に生まれてくるのではない。そんな「負わされた生」を自分のものとして受け入れる、その一連のプロセスが生きるということだと言える。

さらに生まれた国や時代、家庭環境などによっても大きく変わってくるのが人の生であり、それは本人のせいではありえない。しかし日々に不遇、不運、不本意、不平等、不協和は起こり、我々の魂はその都度、痛み削られる。

例えば早く死んでしまった人は不幸なのか。早逝は気の毒だし不遇であろう。しかしそれだけで不幸だったと決めつけるわけにはいかない。長く生きていたって不幸な人はたくさんいるし、むしろ生きる長さに比例して、嫌なことの数は単純に増える。

例えば暴力に晒されたり、虐げられたりというのは不幸なのか。こういう人生は確かにつらい。平穏な人生とどちらを選ぶ?と言われたら、前者を選ぶ人はいないだろう。僕だって選ばない。しかしそれだけで不幸と決めつけるわけにはいかない。いや、人生という意味では確かに不幸だ。だがそれで、その人自身の価値は毀損されるのか?というと、そんなことは絶対にない。そういった不遇は、本人ではなく環境の問題、外的要因に過ぎないからだ。外的要因と人の魂はまったく関係がない。

往々にして、人は苦しみが多いと、自分の人生に価値はないと決めてしまって、前向きに生きることを放棄してしまう。だが先ほど書いたように、自分の価値と不遇な環境は相関がないのだ。これは人の「不協和に耐えられない」という性質がそうさせると思っていて、不遇な自分は不遇にふさわしい人間であると、頭で辻褄を合わせて認知してしまうのだ。だが感覚や本能はそんな嘘を許さない。だから引き裂かれてつらくなる。

どんな不遇にあっても魂までダメになるわけではない。それがダメになる瞬間があるとすれば、それは、自分が受けた被害によって自らを犠牲者と断じ、他人に同様の加害を加えはじめた時だろう。かわいそうな自分にはその権利があると、他人より自分が不幸なのは許されないと、他人がそれぞれどのような不遇と戦っているかも知らずに、自分自身だけにフォーカスして害をバトンした瞬間、その人の魂は地に落ちるだろう。

そうしない、というのは戦いだし、その戦いこそが自分に克つことだし、何があっても自分を蔑まないことが価値だろう。それだけでその人の生は意味を持つ。

不本意に負わされた生の中、外的要因によって傷つき疲れ果てた魂は、自分の内部からの認識と姿勢と志によって、充分に救済され得るのだと、そう言いたいのである。

やぶさかではありません!