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一人旅について。

たまたま見かけた誰かのブログエントリで、「一人ではない旅は『旅』と言えるのだろうか」という一文に出会った。

旅は人数に関わらず「旅」と呼んで差し支えないと個人的には思うが、一人旅とそれ以外では確かにまったく質が違う。だから「旅」という大きなくくりの言い方に対して「一人旅」という言葉がわざわざ存在するのだろう。

僕は単独行動に快適さを覚えるタイプなので、もちろん一人旅も大好きである。

自分の過去の一人旅での過ごし方を思い返してみる。まず、非常にたくさん歩く。かなり歩く。スピードも速い。夢中で歩いているので、足が痛いのに気がつくのは宿に帰ってからということもしばしばである。そして電車などの移動中は本を読んでいる(注:今ならここにスマホが入るだろう。2013年のエントリだけに時代性がある)。ぼーっと景色を眺めるということが実は少ない。つまり「何もしない」という時間の使い方をあまりしない。これが一人旅の世界におけるマジョリティなのかマイノリティなのか、そのあたりはよくわからない。

一人旅をしていると実は退屈な時間というものが一定以上ある。話し相手がいないのだから当然なのだが、わざわざ一人で出かけておいて退屈というのは矛盾している気もする。しかし、これは一人旅の必要悪のようなものかなと思ったりする。必要悪という言葉で悪ければ副作用である。

日常の暮らしにしてからがそうだが、すべての時間が楽しいということはあり得ない。

グッとくる瞬間であるとか、救われたような時間であるとか、心から素晴らしいと思える体験であるとか、そういうものに触れられることがわずかでもあったなら、トータルとしてのその時間は非常に充実した、幸福なものなのである。一人旅はそれを非常に先鋭化した形で見せてくれる。

さらに面白いなと思うのは、その時は感じたはずの退屈な時間というものは、後から思い返すと揮発したように記憶の中から消え去っているのだ。旅全体を反芻する中で、まず思い出すのはあくまでも楽しかった時間や気持ちの良かった瞬間である。

なぜか。

「人間は生きてゆくために嫌なことを上手く忘れるように出来ている」などとも言われる。が、それだけでもないのではないか。

つまり「快適さや感動をよりよく受け取るために必要な退屈の量というのがあり、それ自体は別に不幸なことではないのだ」という確信のようなものを誰もが持っていて、それが退屈な記憶を消し去るのではないだろうかと思うのである。

旅の定義としては新明解国語辞典にはこのようにある。

差し当たっての用事ではないが、判で押したような毎日の生活の枠からある期間離れて、ほかの土地で非日常的な生活を送り迎えること。

ポイントは「毎日の生活の枠から離れて」ということだろう。繰り返す日常のつまらなさがどうしてもあるとして、そこからわずかな比率だけ抽出された「非日常」、それが旅の本質であろう。逆に言えば旅が日常化した人にとっては、他の人の日常こそが旅なのだ。人生の比率の問題なのである。そしてこれは、つい先ほど書いた「退屈と感動」の比率にも似ている。

楽しい時間は多いに越したことはない。でも「いつもいつも楽しい」という人は、「楽しくない時間」を何かの形に変換してしまっているだけなのではないか。暗がりがあるからこそ光は明るく感じられるように、非日常と日常のバランスとしての「ハレとケの黄金率」のようなものが実は存在するのではないだろうか。

それにしても旅はいいですね。ロングトリップじゃなくても、身近な国内にちょっと行って美味しいものを食べる。目的もなくテカポコ歩く。自分にとって何かきれいなものを探しに行く。僕の望む幸福の現実的最大値って実はそのへんなのではないかと思うのである。

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