MY TIME.

(この文章は筆者が35歳の頃に書いたものである。)

僕は今35歳なので、少々気が早いのかもしれないが、「老い」のようなものをイメージするようになった。老いというか、「残り時間」といったほうがいいかもしれない。それはいわゆる人生の終わりという意味ではなくて、「今のような感性で物事をずっと楽しめるわけではないかもしれないな」、そういう意味での「残り時間」である。

僕の感性というか感覚は、20代の前半からあまり変わっていない気がする。すなわち「持たざるもの」としての感性だ。もっと分かりやすく「貧乏青年」という言い方でもいいですけど。実際、今も裕福ではまったくないし、同世代の男性が持っていても良さそうな、高い車だの素敵な時計だの綺麗な靴だの、立派なスーツだの真新しいマンションだの、そういったものを持っていないし、今のところ持つ予定もない。そうするとどうなるかというと、物以外の事柄に興味が向くのである。事実僕には、ほとんど物欲と呼べるようなものが見当たらない。

生きるとはつまり「時間をどう使うか」と言い換えることができる。時間の使い方がその人の個性であり、その人そのものでもある。そもそも僕はたいして物を買わない。せいぜい街で本や雑誌や漫画を買い、食事をし、最近は食事をこしらえ、少しの酒を飲み、最小限の服を買って、時々どこかへ遊びに行く。そんなところだ。それでも十分に楽しんでいる。

例えば休日、天気の良い日に電車に乗る。それだけでも楽しい。かなり安上がりに楽しみを享受できる体質なのだ。

だがそういった「何でもないことの楽しみ」という感じ方は、これから年を経ても持ち続けるものなのだろうか?とも思う。そこに「残り時間」があるのではないかと感じるのである。

一般に言われる「大人になる」とは、成人を意味しない。中国でいう「大人(ターレン)」、つまり立派な人間というニュアンスに近い。だからいくつになっても「大人になる」という言い方は使用される。そしてそれは具体的にいうと「責任を持つ立場になる」という意味でもある。義務としての責任もそうだし、能力としての責任もそうである。

子供はいくら意識が高くて賢くても、周りが責任を取らせてくれない。「責任を取る」とは自分以外のリスクを引き受けるということだ。大人は、自分の思い、自分の自由のためだけに生きてはいけないのである。誰かの責任を引き受けた時点で、その人は大人になる。だから人の面倒をみるという意識の強い、(またはその義務を課せられた)田舎の人間が、年齢の割に概ね大人びて見えるのはそのせいだと思う。

話が逸れたが、「残り時間」を感じるとどうなるかというと、物事の優先順位がクリアになる。やりたいことがより大事に見えてくる。僕はもっと休日を楽しみたい。もっと色々な本を読みたいし、様々な世界に触れたい。あらゆる世の「芸」を満喫したい。世界の中で行きたいところもたくさんあるし、身近な場所もまたしかりだ。それほどの贅沢はしなくていい、しかし興味の対象は尽きない。そして、その膨大な広野を想像するにつけ思うのである、ああなんと「残り時間」の短く少ないことだろうかと。

やぶさかではありません!