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海の深さは珊瑚が決める。

もともと水泳は苦手で50m泳ぐのすらおぼつかない。でもシュノーケルを使って呼吸さえできれば、かなりの時間休まずに泳ぎ続けられるのだと知った。

浜から数メートル海へ入る。水面ギリギリに半透明の小さな魚がまとわりつき、うごめくガラスの破片のようにきらきらと光に反射するのが見える。足もとには群生した珊瑚が黒く水越しにゆらめいている。ゴーグルをつけて海に顔をつけると、びっくりするほど近くに極彩色の魚たちが泳いでいた。

海の深さを珊瑚が決めている。珊瑚は時に水面すれすれまで張り出しているものもある。そして本当の「海底」が珊瑚と珊瑚のあいだに穴のように点在している。テーブルのように平たく大きな珊瑚だけではなく、おそらくは人間の発想では思いつかないような色と形をして、珊瑚は海の底に独特の完璧な世界を形成しているのだ。水の中には太陽の光が射し、空間の感覚がどこかへ消えて行った。

ほんの少し沖の方向へと向かう。沖と言ってもほんの10数メートルほどだ。さっきから泳ぎ続けているのだが、やはり呼吸ができるというのは楽で、プールで泳いだ時のような疲れの感じは覚えない。

泳いでいくと、ある地点で色とりどりに海の底を埋め尽くした珊瑚がとぎれ、白い砂の底が顔を出す。深さ3〜4メートルはあるだろうか。海の地面に茎だけの黒い植物が等間隔に並んでいた。まるで誰かが測量のために立てた杭のように見えるが、わざわざ海の底にそんな事をして歩く人がいるとも思えない。魚もちらほらといるが、珊瑚が群生したあたりからするとずっと少ない。そのかわりというか、海の底には大きなナマコのような生き物が見える。距離感がいまひとつ掴めないため、それはものすごく巨大な生き物のように感じられる。

さらに、もう少しだけ沖へ泳いで行ってみた。ここは大きな島からほど近い、無人島と無人島の間の海である。群島の間をつなぐ色と光の海だから、それほど深くもないだろう。そう思って海面をゆっくりと泳いで行く。空から射した光が海に鮮やかに映えていて、とても綺麗だ。

ふと、ある地点から海底がすうっと深くなっているのを見つけた。白い下りの坂道が光の届かない海の奥のほうへずうっと続いている。底にはさっきの茎のような植物があるくらいで、珊瑚はもう無かった。海の中で息が自由にできたなら、この坂道を歩いて下って行ってみたい、そんな気もしたが、足もとを流れる海のひんやりした水に、また、その奥の果てしない深さと暗さに少々怖くなった。ここから先は海の世界なのだ。人の踏み込める領域はここまでなのだ。そう思うことにして、もと来た珊瑚のほうへそっと引き返した。

今でもひんやりと思い出すのは、まるで歩いて降りていけそうな、あの海底へと続く白い坂道だ。

夢うつつに想像する。僕は群生した珊瑚を背に、海の底の白い坂道を歩いて降りて行く。歩を進めるごとに水はひんやりと冷たくなっていく。素足に触れる海底の砂の感触。静寂の音。どこまでも続くような下り坂の先は暗く、どこまで続いているのかわからない。それでも僕はどんどん歩いて行く。白と蒼のツートンの世界をゆっくりと降りて行く。

そして静かに見上げると、あの沖縄の太陽が水面越しにゆらゆらと揺れているのだ。

やぶさかではありません!