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自分についてのQ&A その9 ネットワークについて他

ネットワークについて
ソーシャルということなら、それによって「居ながらにして」という便利とともに「孤独な時間」を奪った、非常に功罪相半ばするもの。

日記をつけていますか?
本来の意味での「日記」はつけたことがない。その日あったことを記すという意味ではね。たとえブログを毎日書いたとして、ツイートを日に何十も何百も重ねたとして、それは日記ではない。日記と聞くと、何かその日の棚卸しのような、その日あったことの整理整頓のような、律儀でマメな人の特権のような感じがする。もう過ぎてしまったその日を振り返るために、一日の終わりのいくばくかの時間を「日記を書く」という行為に費やし、それを毎日継続する。自分にはそれが、なにか儀式めいた行動に思えてならない。


今日の心配事は?
心配事はいつも長期的なものです。


カウンセラーにかかったことはありますか?
ありません。かかってみたいと思ったことはある。


あなたは嫉妬深いか
ネガティブな感情はいくつもあるが、嫉妬というのは比較的に薄いのではないか。


あなたはセンチメンタルか
多少。


今一番行きたい場所、いたい場所
どこだろう…行きたい場所というと、海外の歴史ある主要都市とかになるのかな。パリとか。そもそも、昔ほどランドスケープに対する憧れというものがなくなっているように思う。身近な公園でも、光線の加減などで非常に美しい風景たりえるとも思う。もちろん、美しければいいというわけではないが。ちなみに今読んでいる本『ヨーロッパ 繁栄の19世紀史』玉木俊明(ちくま新書)に出てきたのだが、「見せびらかしのための消費(衒示的消費)」という言葉がある。これなどは非常にソーシャル的ではないかと思うのだが、いま自分が旅行に行ったら、インスタグラムやTwitterに画像をアップしないというのは考えられない。これは「見せびらかしのための消費」という概念における自らの誇示とイコールではないにせよ、個人的に純粋な、自分の、自分による、自分のためだけの旅の楽しみ方からすると、喪失のようにすら感じられる。


生きる信条
ない。しかしあえて言うなら、誠実でありたい相手に対して誠実であること。

忘れられない味
厳密な意味で「忘れられない味」というのはあるのだろうか?美味しかったという現象の記憶はあるが、味そのものの記憶となるとかなり怪しい。それぐらい、記憶というものにはフィルターがかかってしまうものだと思っている。記憶の味というものは、自分のいま思いたいように変化して記憶されていると思っている。それはそうとして、もうなくなってしまった地元のデパートの最上階のレストラン街にあった、中華料理店の炒飯の味は忘れられない。おそらく「もう食べることは叶わない」というスパイスが、記憶の中の炒飯にたっぷりとふり掛けられているがゆえの美化ではないかと思われる。


仏教について
細分化している。知人が日蓮系の宗派なのだが、それによって日蓮系は排他的で過激なのだと知った。実家は曹洞宗だったが、田舎によくあるように仏壇の上に神棚を飾るようなゆるさだったので、かなりいい加減なのではなかったかと思われる。個人的には信仰というのは、生きることを少しでも楽にするための考え方や技術だと思っているが、哲学などとは違ったある種の囲い込みの体制があるために、「外側」の人間からするとアレルギーのようなものがどうしてもある。最初に「細分化している」と書いたが、仏教や信仰についての僕の意見も非常に細分化していて言いたいことがたくさんあり、ここですべてを語るのは難しい。ちなみに僕自身に信仰の自覚はない(ここで「自覚はない」と書く感じのアティテュードである)。このテーマについてはいずれ折にふれて書きたいと思っている。

やぶさかではありません!