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ラクちん人生と前向きな後悔。

自室の本棚にあった中から、県民性についての文庫本を取り出して読んでいる。47都道府県のすべてについて、著者の滞在実感とデータを元にある程度「この県の人はこういう性格がある」と言い切った、ある意味でジョークを交えた本である。ブラジル人は陽気だとか、ドイツ人は几帳面だとか、イタリア人は女好きだとか、ロシア人はウオッカに目がないとかのいわゆる民族ジョークにノリが近いが、ちょっと違うのは統計データに基づいていることである。

その中に「秋田県民と島根県民はよく似ている」という考察があった。生活習慣病による死亡者数、高血圧患者の数、ガンによる死亡者数、脳血管疾患による死亡者数がそれぞれかなり近い位置にあり「(秋田と島根は)まるで兄弟のようだ」とある。そして、この種の生活習慣病の原因の一つとして、著者はストレスをあげている。「要するに、閉鎖的な地域特有の、人間関係からくるストレスを解消するのが得意でない人たちが多く住んでいるのではないか」とある。

そして寒さである。まさに僕は秋田出身であるが、夏の快適さとは裏腹の、冬の寒さには辟易した。もちろん、そこは雪国ゆえの暮らしかたで、家の中ではガンガン暖房を効かせ、むしろTシャツでも過ごせるくらいの室温にしてしまったりするのだが、いつも室内にこもっていられるわけもなく、基本的には厳寒の季節はとてもつらい。日照のなさも手伝って、気持ちが陰鬱になってしまうのも無理はなかろうと思われる。

と、さんざん環境のせいにしたところで(笑)、最近とみに思うのは「人生全般、そんなに無理に頑張って生きなくてもよかったな」ということだ。頑張らなくていいよ、ということではない。自分自身、寒さのストレスをぐっと堪えるように、閉鎖的な人間関係の圧をじっと耐え忍ぶように、常に力を入れて生きてきたような感覚があるのである。もちろん、そう生きるようになった理由というのはいくつもあるのだが、その上で思い返してみても、そんなことはやはり必要なかった。なお、ここでいう「頑張る」とは現実的な努力のことではない。不要な力みを持つこととか、苦しまなければ頑張ってるとは言えないと思ってしまうような心性のことだ。

むしろ、そういう「頑張っている」態度は害悪ですらある。自分が生きることは、誰にとっても自分一人の問題じゃないのだ。人は相互に影響を与えあう関係性の中に生きているので、自分が自分に課した制約は、近くにいる他人にも与えてしまうことになる。自分の我慢はそのまま他人に与える狭量さになってしまう。しんどさを受け入れて生きることは、人にもそのしんどさを受け入れろというメッセージそのものになってしまうのだ。

つまり自分で自分に与えるラクちんさというものは、そのまま他人への寛容さに繋がり、ラクに生きようぜというメッセージになる。リラックスした空気は伝染する。そして活動する場においてリラックスというのは集中の条件でもある。力は抜いていたほうがいいのである。むしろ、そうしないことのメリットが見当たらないほどだ。

そしてこういう時に、外から余計なプレッシャーを掛けるのが、「頑張らないといけないと思っている人たち」である。彼らの中には自分も頑張っているからお前も頑張れ!という奴隷タイプの人と、自分ではさっぱり頑張っていないくせに他人に苦労を押し付ける悪魔タイプとがある。他人への悪影響としてはどっちもどっちだが、前者の始末はけっこう悪い。「自分よりも軽い足枷をしている奴隷を許せない」みたいに思っているのかもしれない。

「そんなに頑張って生きるべきではなかった」というのは後悔だろう。だが、そこにあるのは「これからはそうしないでいこう」と思える前向きさだ。後悔というのはどうにもならない過去への悔恨なので、口にしたり書いたりするのは勇気がいる。自分は後悔を持っている人間である、と認めることも難しい。とある作家の指摘を待つまでもなく、後悔というのは人生でもっとも恐ろしく、できるなら誰もが無縁でありたいものだからだ。しかし、言語化の効用というものがある。本意なものであれ不本意なものであれ、感情に輪郭を与えて言葉にすることで客観化できる。自分の外部に取り出してしまう、そして過去へと押し流すことが可能になる。僕はそう信じている人間なので、前向きな後悔というのはそんなに悪くないじゃないかという気がしているのである。

やぶさかではありません!